日本人拉致事件の裏で「チュチェ思想研究会」が蠢く

今日もお立ち寄り有難うございます。

 

日本に静かに蔓延る「チュチェ思想」の怖さを知っていただくために、

よど号ハイジャック犯」メンバーの妻たちについて書いていきたいと思います。

彼女たちがどうして「よど号ハイジャック犯」の妻になったのか…ならされたのかを知れば、「チュチェ思想研究会」が北朝鮮のグルであることが分かります。

 

【宿命 「よど号」亡命者たちの秘密工作】高沢皓司著

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 労働党よど号」特別課が考えたことは、田宮が計画した「結婚作戦」よりももっと簡単で手っ取り早い方法だった。ピョンヤンで女性たちと合わせ、結婚させること、である。女性は日本から連れてくればそれですむ。そして、担当した特別課には、それを可能にする権力が付与されていた。

 

「結婚作戦」は、ここで「よど号」のプランを大きく離れ、労働党の独自プランとなった。 

 金正日指揮下の特別工作員の手配によって「よど号」の花嫁となるべき女性たちは日本国内から選抜された。

 

多くは国内の金日成思想の信奉者である主体思想研究会(チュチェ研)周辺の女性たちだった。

(中略)

 花嫁候補として急遽選ばれた女性たちは、1977年のはじめに一斉にパスポートを取得し、ほぼ同時期に、つづけて日本を出国した。

 チュチェ研の幹部活動家だった金子恵美は、1977年1月11日にパスポートを取得、2週間後の25日、羽田から出国。

のち赤木士郎の妻になった。

 

 朝鮮文化研究会のメンバーで北朝鮮に強いあこがれをもっていた水谷恊子は、1977年3月18日のパスポートを取得、大学には休学届けを出し、10日後の3月29日、羽田から香港に出国。

家族には「ブルガリアに留学する」と言っていた。東欧留学中に田中と出会ったとする彼女のウエディングストーリーは、この時の説明がもとになっている。(※水谷恊子の嘘の説明)

のち、田中義三の妻となった。

 

在日朝鮮人を父にもつ森順子は、1977年3月17日にパスポートを取得、同月25日、職場に突然退職届けを出し、5日後の3月30日、羽田から香港に向けて出国。

のちに田宮高麿の妻となった。

 

バルセロナの動物園にて(1980年4月撮影、左・黒田佐喜子、中央森順子、右・失踪したIさん

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※【宿命「よど号」亡命者たちの秘密工作】より

 

 黒田佐喜子と魚本民子は、それより少しばかり早い。

チュチェ研の幹部活動家だった黒田が、もっと早く1976年6月13日、日本を出国、

のちに林盛亮の妻となった。

(中略)

 次いで、魚本民子が1976年10月7日、羽田からメキシコに向けて出国した。

彼女ひとりが遠隔地であるメキシコを渡航先としているのは、多分、彼女の新左翼党派(※プロレタリア青年同盟=協労党の学生組織)での活動と無関係ではない。

公安当局にマークされている可能性を考えて慎重に計画を運ぶ必要があったからである。

 世界地図をほぼ一周するかたちでメキシコ、北欧、モスクワを経てピョンヤンに到着した彼女は安部公博の妻になった。

(中略)

女性たちのひとりは、日本出国を前に親しい友人に対して、

「行き先については絶対に秘密で言えない。私用の手紙も出せない。日本人だからできる仕事だ。支度金として15万円を貰った」

と話していたことが明らかになっている。

 

 また、ほとんどの女性たちの家族あてには、彼女たちが日本を出国した後、国内消印であたり障りのない文面の自筆ハガキや手紙が届く巧妙なアリバイ工作もされていた。

 

 もっとも、彼女たちにしても日本を出国するときに「よど号」メンバーと結婚させられるということは、まだ聞かされていない。

 

彼女たちの北朝鮮への渡航が見学や学習、旅行のためではなく、あらかじめ周到に計画された「結婚」のためであったと理解したときには、すでに彼女たちは北朝鮮にいた。

もはや後戻りはできなかった。「よど号」グループの「妻」となることを、彼女たちは自ら“主体的に”選択するよりほかはなかったのである。

(中略)女性たちには「よど号赤軍派のメンバーのようにブレーン・ウオッシングに時間をかける必要はなかった。

彼女たちは日本にいるときからすでに、チュチェ思想金日成主義の洗礼を受けていたからである

(中略)

 事実、彼女たちが北朝鮮渡航し、全員の顔ぶれがそろったところで、彼ら、彼女らはそれぞれの組み合わせで結婚式を挙げた。

あわただしく彼女たちが日本を出国して、まだ1か月しかたっていない5月の初めのことである。

よど号」の子どもたちの帰国問題が具体的な問題になった後年、最年少メンバーであった柴田泰弘の「子どもたちの帰国問題」に関する記者会見(1997年9月)の席上でも「結婚式のあとそれぞれ記念写真を撮影した」などの発言がみられる。

 

統一教会合同結婚式を彷彿とさせる光景であったと思われる。

そのとき、彼女たちは、純白のチマ・チョゴリに身を包んだ“チュチェの花嫁”、“首領様の花嫁”だった。

 

下記の引用は、カルト宗教、犯罪集団が「人をたぶらかす」手段として、「人の心の隙間」を上手く埋めることによって、対象者を嵌めることに長けているという実際の例です。

チュチェ思想研究会」という「カルト集団」が実際に日本人拉致に係わり…さらに多くの日本人の拉致事件の幇助をしていたことを私たちは忘れてはならないでしょう。

 

八重恵が大阪から突然、失踪したのは1977年の2月。

ちょうどこの頃、76年から77年にかけて、日本国内から北朝鮮が関与したとみられる失踪事件があいついだ。日本海沿岸や九州からも数組のアベックが姿を消している。

のちに「よど号」の「妻」となったほかの女性たちの日本出国の時期もこれと重なっている。

八重恵の失踪も、じつはこれらの一連の失踪事件のひとつとして考えるべき性質のものだったのである。

 1975年3月、兵庫県下の高校を卒業した八重恵は、ある美術大学を受験した。試験には合格したが経済的な理由で進学を断念している。

(中略)

 ある日、神戸の街を歩いていた彼女はふと足を止めた。映画会のポスターが目に入ったからである。

ポスターは「朝鮮映画を見る会」のものだった。彼女はそのとき、仲良しだったクラスメイトの在日朝鮮人の友人のことを思い出している。なつかしさが先に立った。入場無料の字が飛び込んだ。

日時も場所も不都合なものではなかった。

(中略)

会場に着くと、受付で住所と名前を書かされている。

そのことには何の疑問も抱かなかった。

映画は北朝鮮の紹介と劇映画だった。面白いというものでもなかったが、「ふーん、なかなかいい国なんだ」と単純に思ったという。 その感想を彼女は、当時、仲のよかった友人に話している。

異変は数日後に起きた。

 チュチェ思想研究会のメンバーと称する人間が彼女の自宅を訪ねてきたのである。

茶店に連れ出されて、会への勧誘を受けた。

北朝鮮がいかにすばらしい国か、金日成がどれほど優れた指導者であるか、そんな話をされたが、よく理解できなかった。

彼女にとってなにより嬉しかったのは、新しい友人ができるかもしれない、ということだけだった。

 誘われるままに彼女はチュチェ思想研究会の例会に参加するようになる

 会では新しい友人が何人かできた。

しかし、彼女は数か月でやめている。チュチェ思想の集まりは、あまりにも閉鎖的で窮屈に感じられた。

 この年齢の若い女性にとって、それは、無理のないことだった。

思想よりも友人とのつきあいが楽しい年頃である。1976年、このとき八重恵は20歳だった。

 彼女がチュチェ思想研究会の会合から離れたとき、すべてはそこで終わるはずだった。しかし、再勧誘は執拗につづいた

 年が明けた正月、在日の友人やチュチェ研の友人とのプライベートな新年会で彼女は、ある在日朝鮮人を紹介されている。

(中略)

(※八重恵は保育専門の)学校の近くに小さなアパートを借り自活をはじめている。

このアパートに、紹介されたばかりの在日朝鮮人が訪れているのが数回、目撃されている。

彼女が、突然失踪し、行方がわからなくなるのはそれからわずか2か月後のことだった。アパートの部屋はそのままにされ、専門学校にも在籍したままだった。

(中略)

のちに「よど号」の「妻」になるほかの何人かの女性たちにも同様の例がある。

(中略)

この八重恵と福留貴美子失踪事件の輪郭が明らかになったとき、私は八重恵の事件の全貌もまた明らかなものになった。

さらに八重恵の失踪の事件が明らかになることで福留貴美子の失踪と「結婚」の事情も明らかになったのである

ふたりとも、それまで「よど号」グループとは何の関係もないところにいた。

福留貴美子と岡本武の接点はどこにもなかったし、八重恵と柴田泰弘との接点も、何もなかったのである。

以下略

 

※「よど号」グループの担当指導工作員・キム・ユーチョル(日本名:ウツノミヤ・オサム)により、騙され拉致された有本恵子さん

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※【宿命「よど号」亡命者たちの秘密工作】より
 

長い引用になりましたが、「よど号ハイジャック犯」とその「妻たち」が「チュチェ思想研究会」というカルト集団により洗脳され、また、強引に拉致されて「チュチェの戦士」として「日本人拉致」に係わってきたことを皆様に知っていただきたいと思います。

 

因みに立憲民主党の「菅直人」は、「市民の党」から3年間で6250万円の献金を受けていましたね。

市民の党」は金日成の70歳の誕生日に1億円もの祝賀金を贈ったとされる朝鮮総連の関係者が会長が関与していて、政治団体の機関紙に「よど号ハイジャック犯」の田宮高麿のメッセージを掲載しています。

 

ウイキペディア「MPD・平和と民主運動」を参照

市民の党」結党の呼びかけ人

田英夫参議院議員横路孝弘衆議院議員八代英太衆参議員、斎藤まさし(本名、酒井剛)…そして、中国共産党対日工作組織団体の会長を務めた元日本共産党員で、よど号ハイジャック犯とも繋がりのある宇都宮徳馬衆参議員

 

市民の党」推薦の議員(当時)

中村敦夫参議員、秋葉忠利広島市長、川田悦子衆議院議員、、堂本暁子千葉県県知事、黒田宇洋参議院議員、篠田昭新潟市長、喜納昌吉参議院議員嘉田由紀子滋賀県知事、大河原雅子参議院議員山本太郎参議院議員、下元孝子都議会議員、野見山修吉小金井市議会議長 他多数

 

宇都宮徳馬」の名前を大きくしたのは、この人物とその周辺の人物が、中国共産党北朝鮮による工作に大きくかかわっていたからです。後にそのことも書いていきたいと思っています。

 

次回は、「チュチェの戦士:よど号ハイジャック犯」たちと共犯の日本の政治家や労働組合、知識人といわれる思想家などを紹介していきたいと思います。

最後までお付き合いくださいまして有難うございます。

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