中国共産党の正体は『匪賊』だった。

今日もお立ち寄り有難うございます。

 

今年はいつになく日本のメディアも『天安門事件』を大々的に取り上げております。

とても良い傾向ですね。

そもそも、中国共産党政府の残虐さはどこからくるのだろう…

などと考えたことはないですか。

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中国、朝鮮(韓国)、ロシア(旧ソ連)の残虐さも相当なものがありますが、ここでは中国や朝鮮半島の考え方や、中国共産党の成り立ちを書いて行きたいと思います。

 

支那豚の楽園』ブログに「匪賊の天国支那」というタイトルでも書いていますので、読んでいただけたらと思います。

(心配なのは8年前に突然音沙汰無しになった支那豚さんの安否です)

 

 >実際にシナの皇帝になった人で、匪賊出身の人が何人かいた。泥棒といい、強盗といい、いくら汚い手を使っても、最後には勝利を手に入れたら、王様になる。

その時、天下の法律、制度は全て王様の都合のよいものになる。

勝てば官軍、敗ければ賊軍

シナ人にとって、捕まえられた泥棒、強盗は運が悪いだけ、運がよければ成功者となる。 過程より結果の方が重要、そのような思想、道徳観を持つシナ人は強盗等の凶悪犯罪への意識は薄い。

 

シナ共産党も、もともとは一つの匪賊集団である。何人かの高級幹部も本物の山賊出身。 二十世紀二、三十年代に、シナ共産党は江西、湖南 陜北でソビエト拠点、紅軍(赤軍)部隊を設立した。シナ共産党の紅軍はひとつの村に着いたら、人を派遣して村のお金持ちの家を探す、その後、紅軍は一気に出動し、お金持ちの家の財産を略奪する。 以上の方法以外に、シナ共産党は当、琿の経費問題を解決するために、匪賊集団と同じやり方で、地主やお金持ち本人あるいは家族を拉致し、人質の家族に身代金を要求する。

 

 シナ共産党の紅軍部隊の当時の革命スローガンはとても現実的なスローガンであった。それは、紅軍の兵士になったら、お金、女をもらえる待倒那打下楡林城、一人一個女学生」「楡林白を攻めてきたら、兵士は一人につき女学生をもらえる)。この言葉は、シナ共産党が陜北にいた頃、部隊兵士の中で流行していた歌である。

だから、長い期間、シナ共産党はシナ国民党に「共匪」と呼ばれていた。 つまり、現在シナの政権を握っているシナ共産党が、武装強盗グループだったことは誰も否定できない事実がある。 以下略

 

このブログの内容を証明する日本の戦前の記事があります。

   ⇓

神戸大学新聞文庫 1920.10.9(大正9) 大阪毎日新聞

過激化せる間島匪賊團 支那側の責任重大 外務省の琿春事件公表

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 >昨年三月朝鮮独立示威運動勃発以来多数の不逞鮮人間島地方支那官憲の取締緩慢なるに乗じ此地を不逞運動の策源地として其暴威を逞うし密に露領方面より武器弾薬の供給を受け昨年五月間島帝国総領事館の一部を焼きたるを手始めに屡次帝国国共内に襲撃して多数の日鮮良民を殺害し公衙を爆破し朝鮮銀行護送現金を強奪し商埠地内において白昼国警察官吏を殺害するなど所在残忍兇行の有らん限りを尽し最近に至りては各地に兵舎を設け…

(中略)

本月(十月)二日 多数の不逞鮮人 露国過激派、馬触並に支那官兵の服装をなせる多数の支那人より成る匪賊の一団は在琿春帝国領事館を襲い郵便室外一棟を除き本館、官舎等悉く灰儘に帰せしめ佐谷警察署長を始め十数名の帝国警察官の殺傷せられたる外商埠地内に火を放ち邦人中多数の被害者を出し老幼婦女子にして見るに忍びざる虐殺を受けたるものがあるが

以下略

 

神戸大学新聞文庫 1920.10.12 大阪毎日新聞

【惨儋たる災後の琿春 邦人は斯うして虐殺された 再度来襲した匪賊団の系統「警源特電十日」/ 大活動開始されん(間島特電十日発)/ 禍根を将来に絶たん 堺間島総領事代理の論告(間島特電十日発)】

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 さて…この残虐な間島の匪賊が邦人を襲った話ですが、中国や韓国、北朝鮮では

「日本軍が朝鮮人を虐殺した」ことに話がすり替わっています。

彼らが使っている百科事典では…

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それはなぜかと申しますと、「間島」にいた朝鮮人支那人匪賊たちが…

中国共産党」に組み込まれていったからです。

つまり、自分たちが「匪賊出身」だったことを隠すためではないでしょうか。

それにしても、なんでもかんでも自分たちのやった罪を「日本軍」のせいにしますね。

彼等は「嘘をつくのは恥」とは考えていないですね。

「嘘をついたもの勝ち」と思っているのではないでしょうか。

 

抗日パルチザン Wikipedia】より

沿海州を中心に、シベリアには多くの高麗人が住んでいて、ロシア国籍を持つものも多かった。彼らの中には、徴兵で独ソ戦を戦った後に帰還し、パルチザン部隊を立ち上げる者もいた。

 

また、義兵闘争のころから沿海州に逃れ、独立運動をくりひろげてきた朝鮮人亡命者も多く、その一人である李東輝が上海臨時政府の国務総理になり、レーニンから資金援助を得たこともあって、高麗人パルチザンは抗日独立の旗をかかげていた

中でも朴イリア(エルニアとも)率いるサハリン部隊は、1920年大正9年)、尼港事件の襲撃に加わって有名になった。

中国政府の調べでは尼港事件における赤軍パルチザン4300人のうち、朝鮮人が1000人を占めていた。

 

もっともこの尼港事件により、日本における当時のパルチザンの一般的なイメージは、匪賊と変わらないとする方向へ傾いた。

(中略)

満州抗日パルチザン

中国共産党に吸収されたパルチザン

1922年(大正11年)の末、日本軍の撤退を受けたシベリアは、ソビエト共産党によって掌握され、日本との関係修復のために、独立をめざす朝鮮人パルチザン武装解除された。 

(中略)

1930年(昭和5年)、コミンテルンの意向があり、満州の朝鮮共産党は、中国共産党に吸収されることとなる 中国共産党満州省委は、この方針に基づき「赤い五月」行動を指令した。 朝鮮族の多い間島ではどれほど熱心にこの指令を実行するかで、朝鮮人中国共産党入党の許可を決める、というような方針があり、間島五・三〇事件(間島暴動)が発生する。

最初に行動を起こした部隊を率いていた人物の一人は、金一星(キム・イルソン)という龍井の大成中学生だった。 この暴動は断続的に翌年の春まで続くが、襲撃されたのは電気会社や鉄橋などの日本の施設と、富裕な朝鮮人・中国人で100人を超える犠牲者もすべて朝鮮人・中国人だった。

 

1932年(昭和7年)、関東軍支配下満州国が成立すると、満州全土で、反満抗日を旗印にかかげる武装団体が立ち上がった。

北軍閥、馬賊、宗教系武装団、朝鮮民族独立武装団、そして、朝鮮人を含む中国共産党パルチザンである。

(中略)

中国共産党による組織化は遅れたが、パルチザンの核はすでにできていた。

共産主義者の詩人・槇村浩が、高知にいながら日本共産党の機関紙・無産党新聞の記事を見て、想像によって『間島パルチザンの歌』を作り、「プロレタリア文学」に発表したのが1932年(昭和7年)の春である。

(中略)

東北人民革命軍は、資金が欠乏したていたためか、東興事件のように、略奪、拉致を常としていて、『間島パルチザンの歌』のイメージからはほど遠かった。

また内紛も多く、「民生団事件」では400名あまりの朝鮮人隊員が粛清されたといわれる。

民生団とは、1932年(昭和7年)に朝鮮総督府が間島に発足させた民族主義反共朝鮮人組織だったが、うまく機能せず、同年の内に解体していた。 したがって、事件がはじまった時点では存在していなかったのだが、人民革命軍は、結局は中国共産党の組織であり、数が多いにもかかわらず、朝鮮人隊員は排斥、疎外される傾向にあったのである。

 

1935年(昭和10年)に東北人民革命軍第一軍師長兼参謀長の李紅光は戦死するが李紅支隊は通化事件などで活躍する。

 

間島の金日成

1935年(昭和10年)、中国共産党中央は、コミンテルンの人民戦線統一戦略に基づき、東北人民革命軍を、あらゆる反日抗満武装団との合作をめざし再編する方針を打ち出した。したがって、共産主義には属さない武装団体も、抗日の一点で一致すれば、共闘し、吸収することをめざすこととなった

以下略

 

韓国では「上海臨時政府」が正当な国家だと言ってますので、韓国は「匪賊国家」ということになりますね。 

だから「反日」のためならどんな「嘘」でも平気で作り上げることをするわけですね。

 

戦前の日本人って、よく観察していますね。すべて見抜いていますよ。

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神戸大学新聞文庫  1930年7月31日 神戸新聞

天人共に憎む『匪軍』とは? 共産主義を悪用する暴徒の集団に過ぎぬ】

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大震災の如く長沙を荒らした共産土匪は匪国支那に現れた新様式の土匪にすぎない、(中略)共産主義の宣伝を行い 共産主義の各種スローガンを鼓吹していた、しかしその宣伝と並行して行われるところを見ると いわゆる士豪列紳の邸宅はもとより官公署等の大建物は只無意味に焼き払われ破壊され殆ど一物も余さず椋奪し去るのである

 

蒋介石の正規軍でも往年の長江進出に際して兵士に与えたるスローガンが『漢口』にあらずして『漢口の酒と女と金言い換えれば漢口における略奪暴行であったのであるから匪を看板に掲げた彼等が各地にどんなお題目を唱えたところで掠奪暴行が緩和されるわけがない…以下略

 

 

国民党軍も共産党軍も「匪賊」を内包しているため、隊員は「金と酒と女」がお目当てだったようですね。

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神戸大学新聞文庫 1932.5.25 京城日報 

上海に於ける学生義勇軍の話 餌食となった女義勇軍

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>そのために共産党の活動分子が学生に化け、或いは軍人となって盛んに煽動、宣伝を行い、血の気の多い学生などを駆り立てて盲目滅法の戦いをやらせた、

彼等はまず我が陸戦隊の守備線たるコウ北戦線をやぶって租界内に突入し、便衣隊の活躍と呼応して上海全市を大混乱に陥らしめ、然る後に十九路軍に兵変をおこして上海を共産党の手に握る、という厖大な計画だったのだ。 

燃しそれは明らかに失敗した。 学生軍の大部分を殺したばかりでなく共産党の活動分子も多数たおれたのである。

 

学生義勇軍の外に市民連合義勇軍というのが組織されて二月八日には後方部隊として出動し、又市民の組織した大刀隊という一隊も前線に出動した、燃し義勇軍として最も人目を惹いたものは北平馮傭大学の女学生義勇軍であった彼女等は男学生義勇軍と共に二月十三日に上海についた

 

胸と腰部とが豊満に膨れ上った軍服姿なるものはおよそ、珍妙なものであった。

燃し彼女等は剣も吊っているし銃を取って射撃もしたし、或は手榴弾の投げ方も練習した。

戦線では土嚢、塹壕の構築や衛生隊、輸送隊などに加わって真剣に活躍した。

が燃し結局は女である。飢えた狼の如き支那兵には肉の軟い子鬼以上に御馳走だったに違いない所謂前線慰問として上海から出掛て来たお転婆女学生と共に支那兵の餌食となる以外にあんまり役には立っていない。

 

支那軍の退却した後の曁南大学中央の塹壕には引裂かれた絹地のスカートが散らかっていた。 大場鎮には下半身裸のままの若い女の死体が転がっていた 江湾鎮の塹壕内では腰が立たずに逃げ遅れた女学生が日本兵の姿を見て『救けて下さい』と手を合わせて拝んだ。

 斯くして支那塹壕には血の亢奮とがカクテルのように掻きまぜられていたのだ

 

国民党軍も共産党軍も…匪賊そのまんまではないでしょうか。

もしかして「従軍慰安婦」って、共産党軍の女子学生のことなんでしょうか?

 

結局、中国共産党大韓民国臨時政府(韓国)も北朝鮮コミンテルンの意向でパルチザン(日本側では匪賊と称する)だったということなんでしょうか。

それにしても、「民族自決」だといいながら、同じ民族から搾取し、命を奪っているのですから…なんとも言葉になりませんね。

「民族自血」と変えたらどうでしょうか。

 

私は、つくづく日本人に生まれて良かったと思います。

 

最後までお読みくださいまして有難うございます。

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