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皆さんは、「反戦」を謳っている日本共産党が「朝鮮戦争」に参戦していたことをご存知でしょうか?
『新左翼とは何だったのか』荒 岱介著 より引用
朝鮮戦争休戦会談が開城ではじまるのは1951年7月です。 この情勢下、日本共産党は51年2月、第4回全国協議会(四全協)で武装闘争方針を提起しました。
「今日の植民地・従属国の解放闘争の主要な形態は武装闘争である」という、当時の中華人民共和国副主席 劉少奇演説に従ったものといわれますが、日共主流(所感派)は強く中国共産党の影響を受けていたのです。
※劉少奇=コミンテルンが開催した『極東諸民族大会(極東の共産主義的・革命的組織の第一1回大会)』に出席していました。
『マオ 誰も知らなかった毛沢東』ユン・チアン ジョン・ハリティ著より引用
日本共産党は1951年1月2日には公然と武力革命を活動方針とする極左路線を打ち出した。
(中略)
朝鮮人日本共産党員が中核であった民戦は日本の左翼勢力に歩調を合わせ、朝鮮戦争反対、吉田内閣打倒を方針に掲げ過激な運動を展開した。
こうして講和条約締結後、左翼勢力と日本政府の最大の衝突が1952年5月1日のメーデーの日に起きたのである。
この日のメーデーを、民戦は「同胞総決起月間」の頂点位置付け、全国のメーデー会場に14万7000人の在日同胞を動員した。
東京ではデモが禁止されていた皇居広場に日本人と朝鮮人のデモ隊が押し寄せ、朝鮮人は北朝鮮国旗を押したててデモを敢行した。
(中略)
私の知人でこの時期、朝鮮高校に通学していた女性がいる。彼女は当時、日本政府による学校閉鎖反対運動、朝鮮戦争反対運動などで、学校での授業よりも街頭デモや反対運動に参加することが多かったと回想している。
街頭闘争の時は、買い物籠に警官隊に投げつける火炎瓶を隠し持って運搬する日が毎日のように続いたという。
※血のメーデー
『昭和毎日』昭和のニュース より引用
画像 お借りしました。
※学校閉鎖反対運動=『阪神教育事件』在日朝鮮人と日本共産党による民族教育闘争
警察庁HP
『暴力革命の方針を堅持する日本共産党』より引用
2「51年綱領」に基づく暴力的破壊活動を展開
日本共産党は、同党の革命路線についてコミンフォルムから批判を受け、昭和26年10月の第5回全国協議会において、「日本の解放と民主的変革を、平和の手段によって達成しうると考えるのはまちがいである」とする「51年綱領」と、「われわれは、武装の準備と行動を開始しなければならない」とする「軍事方針」を決定しました。
日本共産党は「安倍政権は日本を戦争が出来る国にしている」と「安保法制」に反対していますが、現在のままでも北朝鮮からミサイルが日本に向かって飛んでくるのはどう説明するのでしょうか?
日本共産党は北朝鮮と血を分けた兄弟なんだから、北朝鮮に反戦の話し合いをしてもいいのではないでしょうか?
挑発をしてきているのは、北朝鮮なのに、どうして安倍首相を責めてばかりいるのでしょうか?
「反戦」を謳いながら、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)による大韓民国(韓国)侵略戦争に加担したのは「反戦」の精神に反する行為だと思うのですが…
日本共産党の党員の皆さん、支持者の皆さん、説明していただけませんでしょうか?
つづく
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