敵を間違えた米国:平和の敵は日本ではなく「共産主義者」だった。

 

今日もお立ち寄り有難うございます。

 

 アメリカは日本の弱体化、細分化を謀るために、日本に占領憲法を押しつけてきたわけですが、敗戦日本に駐留して、ソ連による日本兵シベリア抑留、日本共産党による騒擾事件の多発、戦前の特高の資料(ゾルゲ事件)、朝鮮戦争勃発から、日米の戦争はソ連共産主義者が仕掛けた罠だったということに気が付きます(因みに、日本では今でも“共産主義者は善で、特高が悪”ということになっていますが)。

 

 共産主義者は「ソ連社会主義を守る」ことを使命としていますので、日本が旧ソ連、中国、北朝鮮を攻撃できないように「憲法9条」を改正したくないのです。

『反戦 平和」の真っ赤な嘘』

 

日本共産党中国共産党の首脳会談での不破議長の発言(大要)』2002年

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要するに、共産主義の繁栄こそが平和を守るといいたいんですね。

日本が憲法9条改正すると、中国や北朝鮮に反撃に出ると恐れているようです。

因みに、日本は戦争で中国を侵略などしたことはございません。

清朝の継続国家、満州族の「満州国」は、帝政ロシア旧ソ連)が侵略してきたために、日本が保護国として建てた国です。そもそも、当時、中国なる国は存在していませんでした。満州国を侵略したのはソ連中国共産党です。

 

 

先ずは、田中角栄の回顧録から紹介します。

早坂茂三の「田中角栄」回想録』早坂茂三

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共産党をつかまえろ」

 ところが、アメリカは、日本の弱体化、非軍事化を進めているうちに“平和の敵”は別にいることがわかったんだな、恐るべきは日本じゃない、と。

北方の白熊だよ、アメリカが顔を突き合わせた“平和の敵”は。

ソ連を主軸としたワルシャワ条約機構共産主義国家郡だ。

 「ベルリンの壁」という大事件が起こり、朝鮮戦争が発生した。そこでアメリカは、北方の熊に対抗するために、日本や西ドイツに対するそれまでの“生かさず殺さず”政策をやめて、両国を再軍備させ、西側陣営の連帯強化を図ろうと、政策の大転換に出たわけだ。

 その政策大転換とは、具体的にいうと、有名なジョージ・ケナンによるアメリカ外交方針の転換であり、マーシャル・プランの発表であり、ドレーパー勧告による日本への賠償放棄宣言である。

 

 そういった情勢激変のなかで、素早く反応したのは、またしても西ドイツだよ。憲法、すなわちドイツ国基本法をサッと改正した。

ところが日本、こちらは「再軍備させます」といっても憲法改正が必要で、それがおいそれとはできない。日本国憲法は衆参両院において三分の二以上の多数の発議がなければ改正を提案できない、と定めているんだからね。

 

 アメリカは東西対立が激しくなると、すぐ日本に、憲法改正をはっきりと要求したんだ。直ちにやってくれ、と。しかし、国内はそう簡単に憲法改正できる情勢じゃない。そこでアメリカは、しょうがなくて、憲法改正の代案として「共産党をつかまえろ」といったわけだ。 以下略

 

実は、ソ連共産主義の恐ろしさを戦前の日本は見抜いていたんです。

神戸大学電子図書館 大阪朝日新聞1920.1.22―1920.1.31

『共産治下の露国(一~九)レニンの政治振り』

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一九一七年十月二十五日のクーデター以来、二月革命並に帝政時代の凡ゆる立法、行政及び司法制度を破壊した、個人自由に対する保障の如きは全然破壊され、革命の齎した進歩的民主的改善は消滅し去って、過激派官僚の専制と代わった、国法は地を仏い過激派の官吏は唯気分の向く儘に、凡うる勝手な真似をして居る。

(中略)

幾万の男女が何等の判決なく単に行政命令によって銃刑に処せられた事は、過激派と誰も之を否認する訳に行かぬ、此れ丈でも彼の沸国革命の恐怖時代と比較にならぬのである…以下略

 

GHQ 知られざる 諜報戦』C・A・ウィロビー著

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  冷戦はすでに大戦中に開始されていたが、戦後、極東において、とりわけソ連からの旧日本軍兵士の復員作業である。すでに記したように、マッカーサーは「歴史上、戦時平時を通じ、米国でもその他の国でも、これほど敏速かつ円滑に復員が行われた例を私は知らない」と報告したが、残念ながらソ連からの復員だけは例外であった。

 

 終戦時には六百万人以上の日本軍兵士が太平洋上の島々やアジア大陸に散らばっていた。それは純粋な人道主義的理由からも、また解放された国々の経済的負担を軽くするためにも、彼ら日本兵のすみやかな帰国は望ましいものとされた。

 そして一九四六年までに、大部分の者が健康な状態で帰国した。その数は、ピーク時には一週間で二万名にも達するほどであった。

 

 ところが、ソ連からの旧日本兵の引き揚げはきわめて緩慢かつ遅鈍に行われ、じつに七年余にわたった。それは米軍側の迅速な復員作業と、好対照をなしているといわざるをえない。

 

 ソ連占領下の中国東北部(旧満州)からの引き揚げの配船は、マッカーサーがこれを保証しなければならなかった。彼は一ヵ月で三十万名を引き揚げさせるべく提案したが、ソ連はこの数字を約五万名に下げてしまった。

 ソ連には彼らなりのいろいろなプラン―裏での計算があったのである。これらのプランの第一は、日本兵捕虜を奴隷的労働力にすることだった。第二の目的は、日本兵捕虜を「洗脳」して完全な共産主義者に仕立て上げることだった。

 

 当時、ドイツのニュンベルクと東京では、日独両国の戦争犯罪人に対して連合軍による戦犯裁判が行われていた。そこでは日独両国による残虐な行為が裁かれていたが、ソ連に連行された満州地区の旧日本兵も、それら戦犯裁判の主要犯罪に匹敵する虐待と乱暴を受けているとして、全世界から非難を浴びせられることになった。

 

 ところがソ連は、日本兵捕虜に関する情報の提供を拒否してきた。そこで問題は東京にある連合国の対日理事会に移された。おかげで対日理事会のソ連代表クズマ・デレビヤンコ将軍と、アメリカ代表の絶えざる論争の一つになっていったのである。

 

読売新聞 1992年6月3日

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※写真がぼやけていて申し訳ございません。

 因みに私は幼い頃、近所にシベリア抑留から帰還した方がいて、親からその方の話を聞いていましたし、「ゾルゲ事件」のことも聞いていました。なので、他の大人もみんな知っているのかと思っていたのですが、実は現在の高齢者でも知らない方が多いことに気付き驚いている次第です。

 

考えてみれば、その後の日本は全学連全共闘などと…共産主義思想に被れた学生が日本中を震撼させた事件が勃発していましたね。

日本って…どうして阿Qが多いんでしょうか? 特に団塊世代から上の世代は…。

 

ソ連強制収容所で、日本共産党の素晴らしさ?を勉強する日本兵捕虜

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現在でも公安監視対象の日本共産党が各自治体、国会の議員になれているのが不思議でなりません。

 

   つづく

 

最後までお読みくださいまして有難うございます。

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