韓国と共産党(悪魔思想)との繋がり

今日もお立ち寄り有難うございます。

 

今、朝鮮半島の南北統一でお隣の国は揺れていますね。

にも拘わらず、日本の左翼野党は「モリカケ」問題一辺倒ですね。

左翼野党からしたら、「憲法改正を阻止したい」「中国の軍事的脅威」から、とにかく安倍政権批判で日本国民の目から逸らしたい、誤魔化したいところなのでしょう。

そこで、少し朝鮮半島共産主義(悪魔思想)の接点などについてお話したいと思います。

 

産経新聞2017.12.17

重慶の韓国抗日拠点跡 視察』

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 韓国の文在寅大統領は16日、中国内陸部の重慶で、朝鮮半島出身者の抗日拠点だった「大韓民国臨時政府」庁舎を視察した。「臨時政府は韓国の根っこだ」と強調し、韓国は中国での抗日活動を継承した国家だとの認識を示した。

(中略)

 1919年に上海に設置された臨時政府は各地を転々とした後、40年から重慶に移った。

文氏は16日、抗日活動家の子孫らとの面談で、2019年に臨時政府設立から100年となるのに合わせ、韓国に記念館を建てる意向を表明した。

(中略)

文氏は習氏との14日の会談や15日の北京大学での講演で繰り返し南京事件に言及し、中国政府も歓迎する立場を示した。講演では「韓国独立運動史の英雄」として、上海で旧日本軍の要人らを爆殺した尹奉吉を取り上げ、「抗日運動は中国と一層深く手を結ぶことになった」と指摘。 以下略

 

大韓民国臨時政府 Wikipedia』より

 

 大韓民国臨時政府は1919年(大正8年)の日本統治時代の朝鮮で起こった三・一運動後、海外で朝鮮の独立運動を進めていた活動家・呂運享・金九らによって、中華民国上海市で結成された朝鮮(韓国)の独立運動組織である。

(中略)

蒋介石中国国民党は党派間の融和に協力した。蒋介石のみならず中国共産党も臨時政府の活動を支えた。

(中略)

臨時政府はシベリア派と上海派の対立、安昌浩等の「民力養成論」派と李東輝等の「即戦即決論」派の対立。さらに李承晩と安昌浩の対立など、指導者間の対立によって混乱し、1923年の国民代表会議の決裂以降は急速に勢力が弱まった。

(中略)

1941年12月9日、対日戦線布告をするが、これは日本政府に布告文書は通達されておらず、実効性は全くなかった。1942年、蒋介石の指示により、独立運動の分派である朝鮮民族革命党の軍事組織である朝鮮義勇隊が臨時政府に合流し、軍部の統一が実現した。

 

その後、アメリカ戦略事務局(OSS)と協約を結んで光復郡軍の特務工作訓練を受けたが、その準備中に日本の降伏を迎えた。

(中略)

1919年9月に統合された臨時政府は国務総理に李東輝を選出し1920年に李東輝・申圭植・慮伯〇が国務総理代理を引き受けた。 以下略

 

まず、「大韓民国臨時政府」と「中国共産党」は、抗日戦争で戦ったと粋がっていますが、日本軍はどちらとも交戦しておりません。

毛沢東率いる中国共産党軍は、日本の諜報機関「岩井公館」の岩井英一や陸軍参謀の特務機関「海機関」を設置した影佐禎昭中佐などと接触し、国民党軍の情報をお金で売っていたのです(『毛沢東 日本軍と共謀した男』遠藤 誉著参照)。

この点では、マルクス毛沢東は同志(毛沢東の場合は抗日での同志・蒋介石)を売るという点で同じ裏切り者ですね。どちらも人類の敵です。

 

そして、「大韓民国臨時政府」も、Wikipediaに書かれている通り、日本軍とは一戦も交えておりません。

なので、「抗日戦争で戦った」という中国共産党も韓国も真っ赤な嘘をついています。

 

また、「南京事件南京大虐殺)」についても、当時、日本軍と戦っていたのは蒋介石率いる国民党軍であり、中国では1979年代まで「南京大虐殺」という事件などなく「南京陥落」という資料しかありませんでした。また、南京市の人でさえ「南京大虐殺」など知らないのです(『毛沢東 日本軍と共謀した男』遠藤誉著より参照)。

 

それをなぜ韓国の文大統領が中国で講演するのか理解できません。ただのバカなのか?無知なのか?韓国人のこのような嘘つきは今に始まったことではありませんが…

 

さて、韓国大統領文氏のいう“韓国の根っこ”である「大韓民国臨時政府」の創設当時の国務総理・李東輝ですが…彼はコミンテルンの大会に出席し、朝鮮に最初に「共産党」をつくった人物です。

 

それ以前に、レーニンから資金援助を受け取って、恐ろしい「尼港事件」に加わった中心的人物でもあります。

つまり、韓国(大韓民国臨時政府)には1919年の創設時より、悪魔思想(共産主義)はずっと受け継がれていたということです。

 

尼港事件 Wikipedia』より

 尼港事件は、ロシア内戦中の1920年大正9年)3月から5月にかけてアムール川の河口にある二コラエフスク(尼港、現在の二コラエフスク・ナ・アムーレ)で発生した、赤軍パルチザンによる大規模な住民虐殺事件。港が冬期に氷結して交通が遮断され孤立した状況の二コラエフスク7をパルチザン部隊4300名(ロシア人3000名、朝鮮人1000名、中国人300名)が占領し、二コラエフスク住民に対する略奪・処刑を行うとともに日本軍守備隊に武器引渡を要求し、これに対して決起した日本軍守備隊を中国海軍と共同で殲滅すると、老若男女の別なく数千人の市民を虐殺した。

 

 殺された住民は総人口のおよそ半分、6000名を超えるともいわれ、日本人居留民、日本領事一家、駐留日本軍守備隊を含んでいたため、国際的批判を浴びた。日本人犠牲者の総数は判明しているだけで731名にのぼり、ほぼ皆殺しにされた。建物はことごとく破壊され二コラエフスクは廃墟となった。この無法行為は、結果的に日本の反発を招いてシベリア出兵を長引かせた。 以下略

 

抗日パルチザン Wikipedia』より抜粋

 もともとロシアにおける「パルチザン」という言葉は、本隊に対する別機動隊(遊撃隊)を意味する軍事用語だったが、十月革命の主体となったボリシェヴィキが、支持派の非正規軍を好んでパルチザンと称したため、この当時から日本でも、共産主義と結びつけて使われることが多くなった。

 

 沿海州を中心に、シベリアには多くの高麗人が住んでいて、ロシア国籍を持つものも多かった。彼らの中には、徴兵で独ソ戦を戦った後に帰還し、パルチザン部隊を立ち上げる者もいた。

 

 また義兵闘争のころから沿海州に逃れ、独立運動をくりひろげてきた朝鮮人亡命者も多く、その一人である李東輝が上海臨時政府の国務総理になり、レーニンから資金援助を得たこともあって、高麗人パルチザンは抗日独立の旗をかかげていた。

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 中でも朴イリア(エルリアとも)率いるサハリン部隊は、1920年大正9年)、尼港事件の襲撃に加わって有名になった。中国政府の調べでは尼港事件における赤軍パルチザン4300人のうち、朝鮮人が1000人を占めていた。 以下略

つまり…韓国も、北朝鮮と同じパルチザンの系列で、共産党の援助で反日活動をしていたということですね。

それにしても、シナ大陸と朝鮮半島にかかわるとロクなことはありません。

 

日本共産党 しんぶん赤旗』2010.8.16

『韓国民団 光復節中央記念式 志委員長あいさつ(全文)』

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日本共産党は、戦前の時代から、日本帝国主義による朝鮮への植民地支配に反対し、朝鮮独立のたたかいに連帯してたたかった政党として、日韓両国国民が、真の親愛の情でむすばれた友好関係をうちたてるために、つぎの諸点で力をつくす決意です。以下略

なんのことはありません。日本共産党コミンテルン日本支部ですので、「22年テーゼ」に従って活動していただけのことです。

 

22年テーゼ Wikipedia』より

 22年テーゼは、1922年にコミンテルンで示された『日本共産党綱領草案』の通称。

1919年に創設されたコミンテルンは、1922年1月にモスクワで極東民族大会を開催した。

(中略)

内容は君主制の廃止、軍隊の廃止、労働者の武装権、朝鮮・中国からの撤退、土地公有化などであった。

 

日本共産党は現在も「自衛隊反対」闘争をしていますよね。

憲法9条改正反対」の原点ともいえますね。

「朝鮮、中国からの撤退」…つまり、ソ連帝政ロシア時代を受け継いで「南下政策」を推し進めるために、日本軍が邪魔だったのでしょう。

 日本共産党が日本国、日本国民のための政党ではないことがよく理解して頂けたと思います。

 そして、韓国が「反日」なのは、当初(レーニンの時代)から共産党が裏で操っていたということもあるのではないでしょうか。

 

 さて、日本共産党が戦前、朝鮮(韓国)人とともに闘ってきた…という言葉ですが、これは本当の話です。

長くなりますので、次回に続きを書かせて頂きます。

 

最後までお読みくださいまして有難うございます。

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