今日もお立ち寄り有難うございます。
「日本人獲得工作」とは、「日本人拉致」のことです。
「反核」は「反戦」「脱原発」へと移行しますが、これにも意味があると私は思っています。
実は、この当時はまだ北朝鮮が核開発をしていませんでしたので、「反帝国主義(反スターリン、反米国」の左翼にとっては「反核」で良かったのです。
ところが、2006年に北朝鮮が核実験をしたものですから、「反核」が言えなくなったんですね。
そこへ、2011年に「東日本大震災」で福島の原発事故があり…人の不幸に乗じて「脱原発」と変化していったのではないかと思っています。
それにしても、北朝鮮は「先軍政治」で、2009年に思想は憲法改正によってチュチェ思想とともに指導思想とされているのですから、左翼の「反戦運動」「軍国主義批判」は、当然、北朝鮮にも向けられなければなりませんが、いまだに「チュチェ思想研究会」が存在しているのが不思議でなりませんね。
そして、中華人民共和国も「核武装」という「軍拡」「侵略」を推し進めているわけですが、左翼はそのことにも口を紡いでいますね。
左翼の「ダブルスタンダード(二重規範)」はわかり易くて、実に恥ずかしいですね。
前書きが長くなり申し訳ありません。
よど号ハイジャック犯と繋がりのあった左翼人士(テロ人士)達のことを書いていきますね。
【宿命「よど号」亡命者たちの秘密工作】高沢皓司著
ウィーン工作
ヨーロッパを舞台とした当時の「よど号」の活動のひとつにウィーンを中心とした「反核」運動への工作がある。
「日本人獲得工作」やある種の「経済活動」がいずれも非公然非合法の地下活動だったのに比べると「反核運動への関わりは大衆的な政治宣伝、扇動活動といえるものだった。それだけに活動任務を負った彼らにしても意気が揚がった。
(中略)
「よど号」グループにとっても、このウィーンは「反核」運動以外の活動分野でも重要な拠点となっていたし以後もありつづけている。
マドリッドから失踪したIさんやMさんが「よど号」の妻たちに小旅行に誘われたのもこのウィーンだったが、背景にはそんな事情が存在していた。
「反核」運動工作は宣伝扇動の名前にふさわしくまず雑誌を発行する計画からはじめられた。事務局の準備委員会が組織され討論がつづけられた。最初は簡単な新聞形式のミニコミだった。
紙名は『おーJAPAN』と名づけられた。1978年のことである。号を追うごとに内容も広がりをもち充実した。
ウィーンから最初に創刊されたこの『おーJAPAN』はのちに久野収、宇井純を顧問に迎え、ヨーロッパだけでなく日本国内でも反核運動の中心的な情報誌となっていく。発行体制ものちには東京に移った。この準備段階で活動していたのがK君であり、運動家として指導していたのが田宮だった。そして事務局と連絡をとりつつこうした運動を実際に組織していったのは、じつは岡本武だったのである。
「反核」運動はヨーロッパから飛び火するように日本でも一瞬のうちに燃えひろがった。ヒロシマ、ナガサキをはじめとして各地で各種の市民団体や労働組合の運動も巻き込んでいった。
(中略)
“ダイ・イン”と称する地面に寝ころんで「死に真似」をするパフォーマンスが繰り返された。核戦争の犠牲を表現して、ということらしかったが、どちらにしろ「反核」という言葉は突如「反戦」という言葉に代わってこの時期、一世を風靡する。
(中略)
『おーJAPAN』創刊4周年記念号(1982年4月号)は、この新しい民主の波」結成記念号の趣で出されている。
結成会議開催へのメッセージを寄せているのは岩井章、土井たか子、吉川勇一、宇井純、宇都宮徳馬、野間宏、久野収、丸木位里、などなど。
※写真は「沖縄県民斯ク戦ヘリ」ブログよりお借り致しました。
そして、じつはこの「宣言」の草稿を書いたのはどうやら田宮高麿らしいのである。
そう思って読み直してみると随所に彼らしい表現とチュチェ思想的発想が見てとれる。
以下略
ここに書かれている、よど号ハイジャック犯の機関紙にメッセージを出した人物を紹介します。
(ウィキペディアより引用…※私の見解も入れています)
・1994年8月に中華人民共和国の「抗日殉難烈士記念館(※実際には日本軍と中国共産党は戦っていない。毛沢東は蒋介石を葬るために、日本軍に協力をしていた)」を訪問。
・1995年6月に自社さ連立政権下で、「歴史を教訓に平和への決意を新たにする決議(※天安門事件で世界から批判された江沢民の要請により村山談話※日本軍が中国を侵略したお詫び)」という「終戦50年決議」案を出す(※これにより、中国と韓国、北朝鮮は日本に恫喝外交と賠償金のおかわりを繰り返すようになる)。
・1999年10月に中国での建国50周年記念の軍事パレードに参加(※「反戦」を謳いながら、中国の侵略戦争には賛成)。
・2001年に拉致被害者家族から、土井が直接返信を頼んだにも関わらず拉致問題解決協力への返事を無視している声明が出される。
・2002年10月、北朝鮮拉致問題が明らかになり、それまで社民党が北朝鮮との友好や「過去の清算(※日本軍が朝鮮半島を侵略したという事実無根の話を信じている無知)」を重視するあまり、拉致事件を追及するどころかこれに目をつむり、北朝鮮を擁護してきたとの批判が強まる中、土井は北朝鮮から「拉致という事実はない」と言われ続けてきたので、追及を十分にできなかったと釈明し謝罪をした。
さらに土井は、党の公式サイトで北朝鮮による日本人拉致を「拉致は創作された事件」と主張した論文(月刊社会民主1997年7月号)を事件が明るみに出た後も、削除せず掲載し続けていたことについて謝罪した。
・1989年7月、韓国の民主化運動(※実際には共産化運動)で逮捕された在日韓国人政治犯29名の釈放を求めるという趣旨の要望書が、当時の土井を含めて日本社会党・公明党・社会民主連合・無所属の議員133名の書名とともに韓国政府へ提出された。このとき釈放要望対象となった政治犯29名の中に、辛光洙や拉致共犯者などが複数含まれていた…(※そもそも、外国政府に、外国人の犯罪者を釈放しろという要望書を日本の国会議員が出すことに違和感を感じますね。 この議員たちは中国共産党のチベット侵略やウイグル侵略、迫害行為に対して何もいいませんよね。「平和」「人権」「反戦」と言いながら、大粛清をしている国を擁護しまくっているのですから、本当に怖ろしい連中です)
・趣味はパチンコ(※パチンコ大使と言われていたが、いわゆる北朝鮮利権が絡んでいた)とカラオケ、選択制夫婦別姓制度導入を支持していた(※中国や朝鮮半島は女性蔑視の考えがあり、夫婦別姓であることと、福島瑞穂や辻元清美は「事実婚」で「夫婦別姓」である)。
●岩井章
・元日本労働組合総評議会(総評)事務局長(※ニワトリからアヒルへと変身…日本共産党が日教組などへ党員を送り込む)。
・特に北朝鮮訪問と金日成体制称賛は同時期に発生していた日本人拉致事件に気付かずに行い、後世からの批判を浴びる事になった。
・1969年レーニン平和賞受賞(※レーニンは1920年に「日米を戦わせよ」と演説している、また、秘密警察「チェカ」を組織し、大粛清を行い恐怖政治を確立させた悪魔)。
●吉川勇一
・東京大学在学中にし、武装闘争を志向す日本共産党に入党する。
・山村工作隊、東大ポポロ事件、砂川闘争などに参加。
・小田実代表のべ平連の2代目事務局長になり、1974年のべ平連解散まで務める(※小田実は北朝鮮礼賛で金日成に気に入られる。妻は在日朝鮮人。 また、ソ連崩壊により、KGBから資金的・物理的援助を受けていたことが秘密文書公開で明らかになる)
・1990年代にソ連の機密文書が公開され、JATECの脱走への移送にKGB協力していたことが明らかになった。吉川本人も、後に共同通信記者の春名幹男の取材に対して、「ソ連大使館の)参事官や一等書記官と会ったが、恐らく、全員がKGB要員だった」、「脱走兵の日本脱出に事実上の援助を与えてくれるところなら、KGBだろうがスパイだろうが手を借りたいという気持ちだった」とソ連政府の協力を得て脱走兵をシベリア経由で送り出していたことを明らかにしている(※ソ連は「日ソ中立条約」を破り、終戦後に日本軍が武装解除した時に、満州や樺太、北方領土へ兵を出し、略奪、暴行、虐殺などを働き、日本人約60万人を極寒のシベリアへ強制連行をさせ、約6万人が殺されました。いまだに樺太や北方領土は返還されていません。 べ平連は、日本人が残忍な扱いを受けて殺された事実をどう思っていたのでしょうか? どの口で「平和」だなんて言っているのでしょうか?頭…おかしいですよね)。
またまた長くなりました。続きは次回にさせていただきます。
最後までお読みくださいまして有難うございます。
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