今日もお立ち寄り有難うございます。
各地で大雨の被害が出ていますが、皆様のところは如何でしょうか?
被害に遭われた方には、お見舞い申し上げます。
さて、共産主義国になると悲惨ですね。
こんな独裁国家に親近感を抱く日本人がいることに、私には理解できません。
産経新聞2019,5,18
【中国、ウィキ全言語遮断 天安門事件30年を前に】
>ウィキペディアの中国語版は2015年から閲覧できなくなっていたが、英語やフランス語など他の全ての言語で利用できなくなった。
財団によると、今回の措置に関する事前の通告や説明はなかったという。
(中略)
ネット利用者が8億人に上る中国では、民主化運動や少数民族問題などに関する情報が国内に流入するのを防ぐため、当局がネット検閲システムを構築。米ツイッターやフェイスブック、ユーチューブへのアクセスを遮断している。
グーグルの検索エンジンも利用不可能だ。
天安門事件に関しては、「暴乱」と位置付ける当局の公式見解以外はネットで閲覧できない。
以下略
[天安門事件]
1989年6月に中国人民解放軍の戒厳部隊が、民主化を求めていた学生らを鎮圧した事件。
同年4月に改革派指導者で共産党総書記を務めた胡耀邦が急逝したのを機に、北京の学生らが大規模な民主化要求運動を展開したが、6月3日夜から4日未明にかけて北京の天安門広場で制圧された。
広場周辺で多数の死傷者が出たが、検証可能な犠牲者数は分かっていない。
「天安門事件」というのは、民主主義の日本からみたら考えられないほど怖ろしい国家の弾圧ですが、実は、中国共産党の歴史からいうと、蚤のような小さな事件なんですよ。
それまでの「大躍進運動」「文化大革命」では何千万もの人民が餓死し、虐待を受けて殺されていったことか…
さらに中国共産党が頂点を極めるまで、どれほどの人民が弾圧され、虐殺、粛清されていったかを考えると…(それまでの弾圧に比べると)小さな事件なんですよ。
その小さな事件を隠さなければならないほど、中共は追い詰められているのではないでしょうか。嘘に嘘を重ねてきた結果が…どうにも言い訳できないところまで来たという感じですね。
以下の話は、満州を守っていた日本の関東軍がソ連に強制連行された後、中共が侵略してきた話です。
⇓
【マオ 誰も知らなかった毛沢東】ユン・チアン&ジョン・ハリディ著
注=(※)は、私が詳細を加筆しました。
>第30章 中国征服
1946~49年★毛沢東52~55歳
毛沢東の最大の武器は、冷酷非情さだった。1948年、東北の長春(※旧満州国:中共は“満州族の国”だったことを消し去るために、“満州”という呼称を消して“中国東北”と変えた)を強硬突撃で攻略しようとして果たせなかったとき、毛沢東は城内を兵糧攻めにして降伏させよ、と命令した。
5月30日林彪(※毛沢東の主体思想を作り上げた人物。その後、毛沢東と対立し、ソ連に亡命する途中にモンゴルで事故死?する。その後ソ連KGBによって遺体は掘り起こされて巨大な鍋でゆでられて骸骨にされた)が実際に使った言葉を引用するならば、「長春を死城にせよ」という作戦である。
(中略)
長春を包囲して3ヵ月後、林彪は毛沢東に次のように報告している。
封鎖……は著しい効果を発揮し、城内に大飢饉を生じさせている…民間人はおもに木の葉や草で命をつないでおり、餓死者が多数出ている…
「わが方の主要対策は、城外への脱出を禁ずることである」と、林彪は書いている。
前線には50メートルごとに歩哨を立たせ、さらに鉄条網と塹壕を併用して、あらゆる抜け道を封じた…それでも脱出してきた者については、中へ戻るよう説得〔原文ママ〕した…飢餓状態が悪化するにつれて、飢えた人々が…群れになって出ようとした。
われわれが押し戻すと、人々は緩衝地帯に押しやられ…そこで多くが餓死した。
〔ある一ヵ所〕だけでも、約2千人が死んだ…
あまりにも残酷なやり方に、共産党軍の兵士たちは力ずくで人々を城内へ押し戻すのを嫌がった。林彪は毛沢東に次のように報告している。
餓死寸前の住民が群れをなして兵隊の前にひざまずき、外へ出してくれと懇願した。なかには、兵隊の前に赤ん坊だけを置いて自分たちは城内へ戻っていく者もいた。
哨所で首を吊った者もいた。歩哨はこの惨状を見るに堪えず、飢えた人々とともにひざまずいて涙を流す兵士もいた…こっそり通してやる兵士もいた。
こうした行為を取り締まったところ、別の傾向が発現した。
兵隊は難民を〔城内へ押し戻すために〕殴りつけ、罵倒し、縛りあげ、なかには難民に向かって発砲して死者が出たケースもあった。
(中略)
9月なかば過ぎから餓死者が急増しはじめた、と、長春市長が記録を残している。最後の食糧だった木の葉が散りはじめたからだ。
5ヵ月にわたる攻囲戦が終わるころには、50万あった長春市の人口は17万に減ってしまった。 1937年の南京大虐殺の死者数を最も多く推定したとして、それよりさらに多くの死者を出したことになる★。
(※「南京大虐殺」は中共によって世界中に流布されていて、信じられている)
★数字をかなり割り引いて発表する中国共産党の公式発表でさえ、長春の民間人餓死者を12万人としている。
攻囲戦に加わっていた人民解放軍の老兵は、当時の自分自身や仲間の気持ちをつぎのように述懐している。
城外にいたとき、中でたくさんの餓死者が出ていると聞いても、われわれはさほど驚かなかった。山のような死体ならこれまで何度も見ていたので、多少のことは動揺しなくなっていた。心臓が鈍麻していたのだ。
けれども、城内にはいって現実を目のあたりにしたとき、われわれは打ちのめされた。 多くの者が涙を流した。みんな、こう言っていた―おれたちは貧しい者のために戦っていたはずじゃないか。それなのに、ここに転がっている死人のいったい何人が金持ちだと言うのだ? この中のだれが国民党員だと言うのだ? みんな貧しい人たちばかりじゃないのか?
(中略)
抗日戦争のあいだ、共産党は土地を没収・再分配する方針を棚上げし、かわりに土地の賃貸料を引き下げる政策を標榜していた。しかし、内戦の本格化と同時に、共産党は本来の過激な政策に逆戻りした。
(※中国共産党は、ソ連に「抗日戦争」をするように指導されていたが、毛沢東は蒋介石の国民党を疲弊させるために、抗日戦争などしていなかったが、中国国内では中共が抗日戦争をしたように宣伝されている)
(中略)
暴力は例によって群衆集会の場でおこなわれ、住民は全員この集会に参加しなければならなかった。 標的にされた人間が群衆の前に引き出されると、組織化され煽られた群衆が標的に向かって罵声を投げつけた。群衆はいっせいにスローガンを叫び、こぶしや農具を振り回した。 それを受けて、地元の活動家や暴徒が標的に虐待を加える。
割れた瓦の上にむきだしの膝でひざまずかされる者もいれば、手足や足首を縛って吊るされる者、死ぬまで農具で殴られる者もいた。
もっとおぞましい拷問もしばしばおこなわれた。
(中略)
康生は、子供も含めて一家全員を標的にするように、と、幹部や活動家を指揮した。
そして、村の子供たちが「小地主」(問題のある家庭出身の子供はこう呼ばれた)を殴り倒す場面を笑顔で見守った。 暴力の標的にされる可能性は誰にもあった。
(中略)
共産党支配下の各地で、身の毛もよだつ虐待がおこなわれた。ある女性の党職員が集会のようすを著者に語ってくれたところによると、「4人が手首を縛られて横一列に4本のロープで吊るされ」、村の「老若男女、子供までもが」この光景を見学させられた。 ロープに吊るされていた一人は「女地主」だった。「考えるだけでもつらい記憶です」と、証人の女性は語った。
本当のところ、彼女はたいして土地など持っていませんでした。
(中略)
彼女はブラウスを脱がされました。赤ちゃんを産んだばかりで、彼女の胸からは母乳がぽたぽた落ちていました。赤ちゃんは泣きながら地面を這い回り、母乳をなめようとしました。
(中略)
こうした見せしめは、人々の記憶に何十年たっても思い出すたびに身震いするほどの強烈な恐怖を焼きつけた。 地域によっては、さらに身の毛もよだつような光景がくりひろげられた。
ある場所では郷紳の一家が標的にされ、姓が「牛」だったのでこの家の老人が鼻に針金を通され、息子が牛を引くように父親の鼻に通した針金を引いて村じゅうを歩かされた。 老父は顔から血をしたたらせながら引かれていった。
別の場所では「最年少から最年長まで、一家全員が皆殺しにされた。
乳飲み子は手足をつかんで引きちぎられたり井戸に投げ捨てられたりして殺された」という。
毛沢東が1947年8月16日から11月21日まで滞在し観光を楽しんだ延安地区の佳県でも、おぞましい残虐行為がおこなわれていた。 この県の活動に関して毛沢東に提出された報告書には、塩水を張った大桶で溺死させられた例、煮えたぎった油から注がれて殺された例などが書かれている。
ある場所では、実際に、「地主を非難する活動に積極的でない者は石打ちによる死刑に処する」という規則まで制定された。
(中略)
半分中国人の血を引くある若いイギリス人女性は、北京の中心部でおこなわれた群衆集会を目撃した。 約200人が街路を引き回されたあと、頭を打ちぬかれて処刑され、脳みそが見物人のところまで飛び散った。
なんとか集会に行かずにすんだ人々も、恐ろしい光景を見なくてすむとは限らなかった。 死体を積んだトラックが血をしたたらせながら街路を往来していたからだ。
毛沢東は人民の大多数―子供も大人も―が暴力行為や殺人行為を見ることを望んだ。
全国民の脳裏に恐ろしく残忍な光景を刻みつけるためだ。 そのやり方は、最も汚い犯罪を人目に触れないところで処理したスターリンやヒトラーをはるかに凌ぐ残忍さだった。
(中略)
★毛沢東時代、中国の刑務所や労改の収容人数はどの年でもおよそ1000万人だったと計算されている。そのうちで毎年平均して10%が処刑されたりその他の原因で死亡したと推定するのは妥当であろう。
以下略
この話…「南京大虐殺」のモデルではないでしょうか?
日本人街が襲撃された「通州事件」では、日本人と朝鮮人が残忍な形で虐殺されました。この時の日本人被害者の写真が、「中国人被害者」として「南京大虐殺記念館」に展示されていました。
他にも、度々日本人が襲撃されて殺害されていました。
反日と漢奸狩りの矛盾=毛沢東は日本軍に協力していた - 姥桜
中国での「排日運動」はすべて、ソ連が裏で煽動していました。
韓国の「徴用工」に使われた写真も、実は「日本人」でしたね。
このような日本人の写真を持ち出したのは、一体誰なんでしょうか?
だいたい察しはついてますが…
因みに、朝鮮半島における虐殺方法も中国と似たり寄ったりです。
中国では「天安門事件」をきっかけに、人民の目を逸らすために、「反日教育」を始めました。
韓国でも中国と同じで、政権維持のために「反日」が利用されています。
どちらの国も「日本あっての」政権維持なんですよね。
「反日」がなくなれば…彼らの生きる希望がなくなってしまうのかも…
常習しているうちに、さらに量が増えて…最期は“死滅”しかないのかもね。
しかし、そんな残忍な中国共産党を延命させてきたのは、田中角栄はじめ、その配下で蠢いた旧田中派(経世会など)政治家(金丸、竹下、小沢などなど…)や官僚たち、そして日本共産党や旧社会党(現:立憲民主党など)、極左の中核派や革マル派などなど、マスコミや労働組合(自治労、日教組などなど)…です。
そして、中国に進出しているマヌケな企業もその罪は大きいです。
「世界の工場」ともてはやしながら、人が住めないほど汚染された大地と空…
中国人民を苦しめているのは、実は左傾した日本のせいでもあると思います。
これらの連中が中共を延命させてきた結果、中国人民は今も騙され、弾圧されて、虐殺されているのです。
最後までお読みくださいまして有難うございます。
誤字、脱字がございますがご容赦くださいませ。
リンクフリーの記事です。皆様のお役に立てれば幸いです。
もっと、書きたいところですが、この辺にしておきます。