今日もお立ち寄り有難うございます。
昨日9月1日は、96年前に「関東大震災」が起きた日です。
吉田特派員の視察記
>東京帝国大学付属病院は二日午前八時消失したが、その際五百名の患者は残らず悉く焼死した。 また吉原遊郭倒潰消失し、娼妓は四方に逃げ惑うたが、三分の一の六百名は焼死さいた(松本電話)
(中略)
■何の窮民か 兇器を携えて暴行 横浜八王子物騒との情報
【二日午後七時、金沢某所着電 長野よりの情報】
二日午後戒厳令発布と東京を追払われた約二百名の不逞漢、いろいろの兇器を携えて八王子市に入り込み不穏の形勢あり。 夕方に至り悪化して暴徒と化し、市民は附近の山中に避難し、警察署は官公吏、青年団に武装を許し相対峙している。
列車は八王子に入るを得ず、右不逞漢は東京、横浜に連絡を有するものと伝えらると、横浜の罹災民避難地へ不逞漢多数暴れ込み、出兵を要求したと(串本電報)
横浜地方では、この機に乗ずる不逞鮮人に対する警戒頗る厳重を極むとの情報が来た
以下略
>
>惨状目も当てられぬ路傍の死傷者 東南部のみで十数万 一日から未だ一食も摂らぬ 船越本社特派員 長野三日発
〔第二報〕今の東京全市は焦熱地獄と化した、焼け出された死体は到る所の路傍にコロがって鬼哭啾々、住むに家無く、食うに物無く、悲惨を極めている。 本所、深川方面は東京瓦斯タンク爆発のため一層死傷者多く、目黒の火薬庫も爆発した。
両国、万世橋その他橋梁も悉く焼け落ちた。 これがため避難民は一層逃げ場を失った。
本所、深川方面の死者のみにても、数万と詿せられ浅草公園の池には、女子供の死体が一杯になり血の池と化している。 本所の元被服廠では避難民三千人が紅蓮の焔の包囲攻撃を受けたので、被害甚だしかったため、路傍に焼けたる死体が累々と積み重なって誰れとて片付けるものもなく、酸鼻の極である。
これ等の死傷者全部を合すると十数万の多きに上り、生ながらの火葬である。
(中略)
■各地でも警戒されたし 警保局から各所へ無電
神戸に於ける某無線電信で、三日傍受したところによると、内務省警保局では朝鮮総督府、呉、佐世保両鎮守府並びに舞鶴要港部司令官宛にて、目下東京市内に於ける大混乱に附け込み不逞鮮人の一派は随所に蜂起せんとするの模様あり。中には爆弾を持って市内を密行し、又、石油鑵を持ち運び、混乱に紛れて大建築物に放火せんとするの模様あり、東京市内に於いては極力警戒中であるが、各地に於いても厳戒せられたしとあった。
以下略
放火殺人暴行椋奪につぎ、橋梁破壊も企てた不逞團
(記事差止め 昨日解除)
>九月一日の震災後、東京始め関東一帯の人を騒がせた流言蜚語の為めに内鮮人にして殺害されるもの算無く。 是が流言の出所に就いては尚お〇明されてされて居ないが、一部の不逞鮮人が混乱裏に左の如く有ゆる犯行を逞うした事で、司法当局は爾来極力是が犯罪検挙に努めた結果、昨二十日一先取調べを終わり、同時に記事差し止めを解除した。
既に起訴されたもの十数件、此他治安警察法違反、窃盗、横領等により起訴した鮮人二十三名、放火、毒薬投入、爆弾携帯、椋奪、婦人に対する暴行、その他の事件につき、東京保小浜に於いて捜査中のものも亦少なくない
椋奪(略)、放火(略)、婦人に暴行(略)、三十名の一団 柳島の呉服屋で椋奪
(略)、椋奪(略)、放火爆弾(略)、少女を殺す(略)、棍棒(略)、拳銃(略)、狙撃(略)、中尉を包囲した三十人の不逞団(略)、抜刀(略)、流言(略)、暴行(略)、橋梁破壊(略)、飲料水へ毒 あべこべに飲まされて悶死(略)、爆弾(略)、殺人(略)、歩兵に抵抗(略)、いたずら(略)
以下略
⇑
「不逞鮮人」とは、「大韓民国臨時政府(独立軍:馬賊、匪賊)のことです!
すでに昨年に記事にしていますので、参考にしてくださいませ。
吉野作造と小沢一郎と日本共産党と「大韓民国臨時政府」との接点は? - 姥桜
彼らの狙いは皇太子だった!
>調査①「独立新聞」説―—六千四百十九人
関東大震災時の「朝鮮人虐殺」を論ずる際に必ず使われる数字が、上海に亡命した大韓民国臨時政府が発行する機関誌「独立新聞」によって報じられたものである。
上海には当時多くの朝鮮独立運動家が集結しており、三・一独立運動後の活動拠点として抗日政府を設立していた。 主要な指導者は李承晩、呂運享、金九などである。
機関紙「独立新聞」の社長の名をとってこの報告書は「金承学調書」と呼ばれ、『現代史資料6/関東大震災と朝鮮人』(みすず書房)はじめ多くの関係書に翻訳引用されてきた。まさに「虐殺人数の原典」といってもよい扱われ方をしている。
この「独立新聞」特派員報告をまず見ておこう。
(中略)
この調査報告の奇怪なことは、「屍体を発見できなかった同胞」数が実に二千八百八十九人に及んでいる点である。
「虐殺された」と主張する死体が発見されないままそれを虐殺としてカウントするのはしょせん道理が通らない。
おそらく最大好意的に解釈しても、氏名と住所が確認されたものの本人が見つからない、どうやら殺害されたに違いないと判断した、ということだろう。
そうだとすれば、それは「行方不明者」としてカウントされるべきものである。不明だから殺された、という主張は非論理的である。 地震直後に移動したか、不幸にも焼死、圧死して焼却され無縁仏となった可能性が高い。
次の「屍体を発見した」とされる約千二百七十四人だが、これも殺害されたのか、震災による死体なのか判断は極めて困難である。
朝鮮人同胞間の情報交換から、調査員は焼却されたと判断したのだろうが、上海から京浜地区にすぐにやって来たとしても、死体が焼却された時点に間に合い独自に検視したとは考えにくい。
死体処理にあたった東京市の作業を点検してみよう。概略はこうである。
先の章でも触れたが、火葬場の能力ははるかに超えていたので、被服廠はじめいくつかの広場、公園、河川敷などを臨時の火葬場とし、連日人夫を駆り集め、薪では不十分なため重油をもって各所で処理した。それがおおむね九月八日から十日くらいまでのことである。
ところが、隅田川の死体はもとより、他の河川に浮き沈みする大量の死体の処理は陸軍工兵の手を借りて落下した橋や障害物を排除しなければ引き揚げられなかった。 すでに異臭を発している死体の引き揚げには九月九日から十五日までかかっている。(「東京市震災衛生救療誌」ほか)
その後は、家屋の下敷きになって圧死したままになっている死体発見に取り組み、各警察署管内で千三百余人の遺体を掘り起こし収容、焼却した。
(中略)
最期の遺体処理が終わったのは十月中旬といわれている。
この警察発表に満足しない「愛国同志援護会」
は、どうやって自分たちでカウントできたのか不明なまま人数の増加をした。
(中略)
さて、聞き取り調査をした在日朝鮮人の組織は果たして死体をその目で確かめ、検視の結果も調査し、氏名、住所との照合ができたのであろうか。
そうでなければ、どこそこで何人という詳細な統計が取れるはずがない。日本人の大多数でさえ、身元不明のまま河川敷や被服廠跡で焼却され、墨田川を腐乱したまま流され、鳶口で掻き揚げられたのだ。
いずれにしても六千数百人という数字は東京、横浜における在日人数から推しても大きくかけ離れており、大矛盾を来しているがその問題は後に述べる。
以下略
さて、先日の「あいちトリエンナーレ 表現の不自由展」の件から、事実無根の「朝鮮人大虐殺」の小説を書いた人物(山田昭次)の名前が浮上してまいりました。
「不自由展」に「群馬県朝鮮人強制連行追悼碑」が展示されていた! - 姥桜
⇓
「強制動員真相究明ネットワーク」の呼びかけ人の中に、「山田昭次」がいます!
⇑
100年経っても、日本の中に「独立軍(馬賊、匪賊)」の手先が蠢いていたんですね!
そ・し・て…100年経っても、韓国人たちは「反日」の為に「嘘の歴史」を作り出しているんですね。
100年経っても、「韓国」は「馬賊、匪賊」的根性から抜け出せないのですね!
最後までお読みくださいまして有難うございます。
誤字・脱字がございましたらご容赦くださいませ。
リンクフリーの記事です。皆様のお役に立ちましたら幸いです。