真珠湾の真実 嵌められた日本

今日もお立ち寄り有難うございます。

 

うっかりしていました。

もう過ぎてしまいましたが、12月8日は「開戦の日」でしたね。

1941年12月8日大日本帝国真珠湾攻撃した日です。

私が住む地域に「ニイタカヤマノボレ」の通信搭があります。

戦争に負けたからなのか…本当に悲しいくらいにひっそりとあります。

 

何年前でしたか、テレビで「パープル暗号は解読されていた」というような特集をしていました。 これは歴史を変える出来事であったのに、日本ではぜんぜん盛り上がらないどころか無視されてきました。

 

なので、『真珠湾の真実 ルーズベルト欺瞞の日々』という本の中身を少し紹介いたします。

因みにこの本を書いた著者もやはり、当時の中国(蒋介石宋美齢、張学良)のプロパガンダ信じているところもあって、日本を誤解(日本が太平洋を支配し、世界を脅かしているという)している記述もありますが、これは現在もアメリカのプロパガンダとなっているのかもしれません。残念ですが…

 

真珠湾の真実 ルーズベルトの欺瞞の日々】

ロバート・B・スティネット 著

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ルーズベルトは事前に何かを知っていて、あの夜それをマロ―らに明かしたのであろうか?

真珠湾攻撃を受けた損害は、現地の新聞では直ちに報道されたけれども、詳細な損害状況が全国的に報道されたのは、1941年12月16日になってからだった。

(中略)

 マロ―とルーズベルトの会談の内容については、この会談の当事者たちが明らかにしていないので憶測で語るしかないが、12月7日までの数日ないし数週の間に、ルーズベルト真珠湾攻撃を予知していたか否かを解決するのに役立つ、より多くの直接的な証拠がある。これまでの説明では、真珠湾攻撃以前には米国は日本軍の暗号を解読していなかったと言われている。 

 今や、われわれは、この主張が間違っていたことを知っている。以前の説明では(ハワイを攻撃した)日本艦隊は厳重な無線封止を守っていたと言われていたが、これも間違っていた。

 事実ははっきりしている。 つまり、ルーズベルト大統領は、日本の真珠湾攻撃を事前に知っていたのである。

(中略)

 

第2章―裏口からの参戦

ワシントン 海軍作戦本部 1940年10月7日

 

 戦火がヨーロッパとアフリカの一部の地域に広がり、日本、ドイツ、イタリアが三大陸で諸国を脅かしていた時、ワシントンの海軍情報部で作成され、ルーズベルトの最も信頼する二人の顧問あてに作成された一通の覚書には、米国の衝撃的な新しい外交政策が提案されていた。

 それは日本を挑発して米国に対し、明らかな戦争行為をとるよう企図したものである(付録A参照)。

 

 マッカラムは対日戦略を作成するうえで、特異な経歴を持っていた。彼は1898年(明治31)年、キリスト教パプティスト派宣教師であった両親の間に長崎で生まれ、少年時代を日本の諸都市で過ごし、日本文化を理解し、英語よりも先に日本語が喋れた。

(中略)

 この年9月に発生した関東大震災後、彼は米海軍からの救援活動の調整に当たった。

米国の援助は好意から出たものであったけれども、尊大で自負心の強い日本人は「異人」の救援活動をこころよく思わなかった。

 それから約20年後マッカラムは、太平洋を支配せんとする日本の残忍な政策にアメリカを干渉させることにより、彼自身であの時の恨みを百倍にして返す仕事を引き受けた。

 

 マッカラム少佐が1940(昭和15)年に作成した5ページの覚書(以下「戦争挑発発行動八項目覚書」と呼ぶ)には、仰天すべき計画、つまり、当時ヨーロッパを侵略しつつあったドイツ軍に対抗していたイギリス軍に、気のすすまないアメリカを動員加担させる状況を作り出そうという計画が認められていた。

 

 その八項目の行動計画は実際上、ハワイのアメリカ陸、海、空軍部隊ならびに太平洋地域のイギリスとオランダの植民地前哨部隊を、日本に攻撃させるよう要求したものだった。

(中略)

 大統領のためにマッカラムが準備した各報告は、世界中に張りめぐらされ米軍の暗号解読員と無線傍受係の手で収集解読された無線電信の傍受記録が基礎となっていた。

(中略)

 当時のアメリカ政府や軍部の中で、日本の活動と意図について、マッカラム少佐ほど知識を持っている人物は、ほとんど見当たらなかった。 彼は日本との戦争は不可避であり、米国にとって都合のよい時に、日本から仕掛けてくるように挑発すべきであると感じていた。

(中略)

 1941年を通じて、日本を挑発して明らかな戦争行為をとらせるようにすることが、ルーズベルトの対日主要政策であったように見える。

(中略)

最も衝撃的な戦争挑発項目の一つは、日本の領海内または領海付近に米艦を故意に配備するという、D項目であった。ホワイトハウスで秘密会議が行われていた時、ルーズベルトはこの項目は自分が担当すると語った。彼はこの挑発行為を「ポップアップ(飛び出し)」と呼び、「自分はそれらの巡洋艦があすこやここで飛び出し(ポップアップ)行動を続けて、ジャップに疑念を与えるようにしたい。そのため巡洋艦を一隻か二隻失っても気にしないが、五隻か六隻も失う破目には陥りたくない」と語った。

(中略)

 D項目の戦争挑発行動をとるようしかけたのはイギリスのウィストン・チャーチル首相であったかもしれない。

(中略)

 1941年3月から7月にかけて、ホワイトハウスの記録によると、ルーズベルト国際法を無視して、ある任務部隊を、そのようなポップアップ巡洋艦三隻として日本海域に派遣していた。

 最も挑発的な行動の一つは瀬戸内海へ主要接近水路である豊後水道への出撃であった。豊後水道は九州と四国との間に横たわり、1941年には大日本帝国海軍お気に入りの行動海域であった。

(中略)

D項目の挑発行為はきわめて危険で、真珠湾で受けたに近いアメリカ水平の死傷者をもたらす可能性もあった。しかし、ポップアップ巡洋艦の巡航中、結局のところ、発砲事件は一件も生起しなかった。一項目の挑発行為が取り上げられただけでなく、日本を挑発するためにマッカラムの提案のすべてが実施された。

(中略)

 スチムソンはこの政策の是非について、日記に次のように書きとめていた。 そこには日本に対して軍事的に何もしない政策と言えるものが、しっかりと書かれていた。

 「日本に最初の一発を発射させることには「リスクはあるが、しかしアメリカ国民から全面的な支援を得るためには、日本にそれをやらせて、誰が見ても侵略者は誰であるか、少しも疑問を抱かないよう、はっきりさせることが望ましい」

(中略)

 「ニイタカヤマノボレ新高山登れ)一二〇八」

 この電報は12月2日午前1時30分にハワイに届いた。この命令を傍受したのはH局のキスナーの部下、ジョセフ・クリスティ・ハワードだった。彼は深夜当直に立ち、90分間、無線傍受を受けていた時、聞きなれた日本海軍のトン・ツー式の仮名文字信号がイヤーホンから聞こえてきた。

(中略)

しかし、諜報網の次段階で、欺瞞が行われた。太平洋艦隊情報参謀エドウィン・レイトン少佐によると、ニイタカ電報はハワイでは傍受されなかったという。 四通りの作り話をデッチあげて、この電報がハワイで傍受されたことも、他から伝達されたこともないと訴えた。

 

 しかし、この話は底は割れている。というのは、この電報はH局のジョセフ・ハワードが確かに傍受していたからである。これまで58年間、山本の戦闘開始命令電報をハワードが傍受していたという話は、一般に知られていなかった。

以下略

 

少しのつもりが長くなってしまいました。

でも、本当は本に書かれている衝撃的な内容を全部紹介したいくらいです。

 

関東大震災の時に、日本人がアメリカからの支援を快くおもっていなかった」というのは大変な誤解で、日本はアメリカに対して謝礼の言葉を述べていますし、直接、若い女性たちがアメリカまで言って謝礼を述べています。

関東大震災のちょっといい話 アメリカの「関東大震災・トモダチ作戦」

 

因みに、ルーズベルト政権を操っていたのは、ソ連コミンテルン工作員達だったというオチは『ヴェノナ 解読されたソ連の暗号とスパイ活動』で明らかにされています。

 

そして、ソ連コミンテルンを引き継いでいるのが「中華人民共和国」です。

 

最後までお読みくださいまして有難うございます。

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