エドガー・スノー『中国の赤い星』に騙された若者

今日もお立ち寄りくださいまして有難うございます。

 

 2019.5.11の記事【最近、中国に関わる怪しい「日本悪玉論的」なコラムが増えてきた】の記事の中で、「エドガー・スノーが書いた毛沢東の宣伝本『中国の赤い星』」が出鱈目だったことを書きましたが、もう少し詳細に書いておこうと思います。

最近、中国に関わる怪しい「日本悪玉論的」なコラムが増えてきた - 姥桜

 

戦後すぐの青少年たちがGHQ占領政策により“洗脳(日本侵略国家&軍国主義の日本が国民を騙していたという話)”されてた結果、中国共産党日本共産党の“罠”に掛ってしまった典型的な実例ではないかと思います。

   

【オヤジとわたし 頂点をきわめた男の物語/田中角栄との23年】

早坂茂三

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> いま思い返してみても、あの当時の新聞は許せない。 “米英撃滅”の旗振りの先頭に立って、大本営の言う通りにウソ八百の記事を書き立て、国民をだまし続けてきた。

 それが戦争に負けたとたん、てのひらを返した。 今度は米英礼賛です。民主主義だ、人民第一だとぬかす。

 私は子供心に、新聞は許せないと思った。

(中略)

 あのころ「米よこせデモ」があって、私たちもプラカードをつくって参加した。青空の下、中学生、女学生もずいぶんおりました。労働組合と一緒になって、2000人ぐらいのひどい身なりの人たちがすきっ腹をかかえて北の港町をデモして歩いた。これが、青春中期のスタートでした。

 

マリア様なのかも知れない

 そんな頃のある日、私はエドガー・スノーが書いた『中国の赤い星』を読んだ。筑摩書房から仙花紙のザラザラの紙で出版された本です。宇佐美誠次郎(※東京帝大経済学部卒。マルクス経済学者。大原社会問題研究所長。法政大学経済大学博士。さんの翻訳でした。

 

 これを読んで、私はびっくりした。何に驚いたのか? 戦争中、私たちが“赤い匪賊”だと教えられていた中国の八路軍は、村へ入っていくと、野菜だとか、イモだとか、麦だとかを時価で買いとっていたというんです。 便所は民家から20メートルぐらい離れたところに5,6メートルの穴を掘って、そこでみんな用を足して、村を離れるときはきれいに穴を埋めてから出発して行く。

 針一本、糸一筋を借りるときにも全部、金を払った。大金持ちがひとり占めしていた土地を取り上げて村の人たちに公平に分配し、借金の証文など全部、焼き捨すてて、自治組織をつくる手伝いをしてくれた―。

 

 アメリカの若いジャーナリストが情熱的に綴った文字を、私は全身で読みました。

そして、毛沢東周恩来朱徳……という人たちの精神の高さに打ちのめされるような気がしました。

 

 それと前後して日本共産党徳田球一、志賀義雄、神山茂夫宮本顕治……こういう人たちが、東京の府中や北海道の網走刑務所の小さな穴ぐらに14年から18年もの間、戦前の非人道的な秩序や戦争への動きに反対してぶちこまれ、節を曲げなかったことも知った。

 私は少年の心で、今後の日本はこの人たちが引っぱって行かなければならないと思ったものです。

 

 こういった経験が土台になって、私はやがて左に傾いていく。

同時に日本基督教団相生町教会で牧師の話を聞いたり、文学作品を読みふけって、子供ながらに足場を求めてもいた。

(中略)

 大隈講堂で新入生歓迎会が開かれていて、私も出席するつもりで、講堂の前まで行ったら、地下の小講堂で日本共産党早稲田大学細胞委員会の主催する新入生歓迎会があった。上か下か。私は何となく面白そうだと思って、上へは行かずに下に降りていった。

 この上か下かが運命の岐れ路でした。 以下略

 

戦前、戦後の帝大は「マルクス主義者」ばかりだったのではないでしょうか。

当時の教師の頭をポンと叩けば、陳腐的血色人マルクスの音が鳴り響いていたことでしょう。

こういった血色人(知識人)は、人間のリアルな生活を経験していない富裕層の出が多いので、非現実的で空想的な理論に騙されやすいんですね。

 

ここでも、「基督教会」が出てきましたね。

日本カトリック正義と平和協議会の活動をよく知るために

 「YMCA(キリスト教青年会)」などという団体も極左と同じ動きをしていますので、気をつけた方が良いです。

百万人署名運動 - Wikipedia

>とめよう戦争への道!百万人署名運動は日本全国50数か所の連絡会活動による各地域ごとの労働組合や地方議員、キリスト教社会派のネットワークづくりを追求し、有事法制に反対する署名運動を行う反戦平和運動である。

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(※西川重則は、中国共産党対日工作団体・「世界抗日戦争史実維護連合会」の活動に従事しています)

 

日本国内で、新左翼団体(※過激派である中核派(※革命的共産主義者同盟全国委員会との関与が指摘されている。1997年9月に38人の呼びかけ人によって「日米新安保ガイドラインと有事立法に反対する百万人署名運動」として開始された。

   ⇑

 

※H13年警察白書

>イ 組織拡大を図る中核派

 (中略)

 大衆運動では、新ガイドライン反対運動で幅拾い勢力を終結させた「百万人署名運動」(9年9月「日米新安保ガイドラインと有事立法に反対する百万人署名運動」として結成し、11年9月、名称を「とめよう戦争への道!百万人署名運動」に変更)を引き続き主導して、大衆団体、労組への浸透を更に深め、組織拡大に結びつけることを目ざした。

 

 

さて、日本の新聞が中共を「共匪」と呼んでいたのは確かです。

    

神戸大学新聞文庫 大阪時事新報 1931(昭和6)年5月14日

【共産土匪の暴虐 廿五萬人を惨殺】

國民會議席上に報告された

江西省方面の被害

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>【南京連合12日発】12日の国民会議に於て河応欽氏の報告した湖南江西省に於ける共匪の被害は左の通りである

 

江西省 人民の惨殺されたもの18万6000人、人民の流浪するに至ったもの211万、家屋の破壊椋奪されたもの10万余戸、財産の損害6億5000万元、穀物の被害8900万ビクル

 

湖南省 人民の惨殺されたもの7万2000人、家屋の破壊椋奪されたもの12万余戸、財産の損害3億万元

 

而して江西全省81県の中共に完全に占領さしもの11県 殆ど大部分を占領されしもの25県に上ると

さて…日本の新聞が事実を曲げて中共を「共匪」と呼んでいたと早坂氏は思ったのでしょうが…支那人の間でも「共匪」「土匪」と呼んで恐れられていたのです。

    

【マオ 誰も知らなかった毛沢東 上】ユン・チアン&ジョン・ハリディ著

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江西省革命根拠地の人間は大半がこの決定に反対したため、毛沢東は彼らを黙らせるのに恐怖という手段に訴えた。 地元の有名な共産党員4名に「反革命」の罪を着せて、陂頭で公開処刑させたのである。この4名は毛沢東によって殺された共産党員として名前が残っている最初の犠牲者である。

(中略)

中国共産党員による内輪の殺し合いは以前にもなかったわけではないが、それまではイデオロギーに名を借りて一族や個人の恨みを晴らす、という類の殺人が大半だったようだ。これに対して毛沢東の殺人は、さらなる野心の追及が目的だった。

(中略)

毛沢東は有名な「共匪」だったので、ニュースは国民党系のメディアで広く取り上げられた。

(中略)

 虐殺は11月下旬に始まった。毛沢東は、紅軍の全部隊に対して根拠地の中心部に集合するよう命じた。ここならば逃亡することが難しいからである。こうしておいて、毛沢東は、彭徳懐指導下の部隊―この部隊には毛沢東による乗っ取りに抵抗した人間が含まれていた―AB団の存在が明らかになった、と発表した。

逮捕と処刑が始まった。

(中略)

 李韶九は12月7日に富田に到着し、毛沢東のリストに載っていた人々を逮捕し、一晩じゅう拷問した。 ひとつは「打地雷公(地雷を打つ)」と呼ばれ、じわじわと親指をつぶして耐え難い苦痛を与える拷問であった。 別の拷問ではやはり苦痛を最大にするために、線香の細火でからだを焼いてじわじわと苦しめた。李韶九はとくに江西共産党幹部の妻たちに対して残酷で、彼女たちを全裸にしたうえで、事件直後に書かれた抗議文によれば、「妻たちのからだ、とくに局部を線香の細火で焼き、乳房を小刀で刻んだ」という。

 

 こうした残虐行為に対して、反乱が起こった。

(中略)

上海から支持を得た勢いを駆って、毛沢東は劉敵ら反乱兵士たちを「審訊」し、処刑した。劉らは処刑前に地元住民への見せしめとして根拠地内を引き回された。江西根拠地の全域から代表が集められ、教訓として処刑を見学させられた。

 

 のちに書かれた秘密報告書から、荒廃しきった江西根拠地のようすを知ることができる。「AB団分子を殺戮するために、すべての仕事が中止させられた」「誰もが恐怖の中で暮らしていた…最悪の時期には、二人の人間が話をしているだけでAB団だと疑われた…情け容赦ないAB団攻撃に参加しない人間は、自身がAB団分子とみなされた…。」

 

おぞましい拷問が、いたるところでおこなわれた。報告書には、「じつに多種多様な拷問がおこなわれた…『坐快活椅子(快楽椅子に座る)』『蝦蟆渇水(ひきがえるが水を飲む)』『猴子●●(猿が縄を引く)』…といったような変わった名前が付けられていた。真っ赤に焼けた㮶杖を肛門に押しこまれた者もいた…勝利県だけでも120種類の拷問があった」と書かれている。「仙人弾琴(仙人が琴を弾く)」という吐き気を催すほど創造的な名前を付けられた拷問は、ペニスに針金を通してその両端を被害者の耳から吊るし、拷問がその針金を弦に見立ててかき鳴らす、というものだった。

殺人も身の毛のよだつ方法で行われた。「どこかの県でも、腹を切り裂いたり心臓をえぐり出したりした例があった」と、報告書が伝えている。

 

江西省においては、総計で何万という人間が殺された。粛清直後に書かれた秘密報告書によれば軍だけでも約1万人が殺害されたという。

(中略)

隣接する福建省でも地元の共産党員が毛沢東に反抗し、1930年7月、毛沢東と朱毛紅軍が近くにいないときを狙って毛沢東側の人間を投票によって解任した。このときも、何千人という人間が処刑された。 

(中略)

毛沢東の部隊は血の一滴まで搾り取ったので、地元の民衆からひどく嫌われていた。

井岡山を出るとき、毛沢東は傷病兵や地方幹部をあとに残していった。 その中で、国民党の正規軍に捕まった者たちは、まだ幸運だった―機関銃で処刑されて終わりだったからだ。

地元の武装勢力の手に落ちた者たちは、腹を引き裂かれ、生きたまま焼かれ、あるいは刃物でじわじわ切り刻まれて殺された。何百人もの人間が殺害された。

 

党委員会の居残り組が上海に送った報告書によると、毛沢東の支配に対する恨みがあまりに強かったので、国民党による「家屋の焼き打ちや首謀者の殺害でさえ、一般大衆のあいだに反動勢力に対する仇恨を生むことはなかった」という。

以下略

 

「マオ」という本には具体的な殺人方法まで書いていましたが、さすがに日本人には耐え難い信じられない光景で、日本の新聞は「共匪」と書くのが精いっぱいだったのではないでしょうか。

 

さて、エドガー・スノーの『中国の赤い星』についても、『マオ 誰も知らなかった毛沢東 上、下』に書かれていますので、紹介させていただきます。

    ⇓

>歴史書には、このいわゆる「暴動」は毛沢東が農民を指導した「秋収蜂起」として紹介されている。「秋収蜂起」は農民指導者・毛沢東の神話を世界的に確立する重大な節目となり、毛沢東の生涯を彩る重大な欺瞞のひとつとなった(それを隠すために、毛沢東アメリカ人記者エドガー・スノーに対して手の込んだ作り話をしている)。この「蜂起」は、真正な農民運動ではなかった。

毛沢東はいかなる作戦行動にも参加しておらず、実際には作戦を妨害していたのである

 

地元住民の福祉などは、最初から配慮の対象外だった(毛沢東アメリカ人のスポークスマン、エドガー・スノーに吹き込んだ話とは正反対である)。 なかには、農民に休日をいっさい与えない村もあった。 休むかわりに、彼らは共産党の強力な支配手段である集会に駆り出された。「平均的な人間は、1ヵ月あたり丸5日分の時間を集会に参加している。これは彼らにとって非常に良い休息時間だ」と、毛沢東は述べている。

(中略)

共産党員による教育のおかげで「中国農村部で何世紀もかかってようやく到達した水準を上回る高い識字率が実現した県もある」と、毛沢東エドガー・スノーに語っている。しかし実際には、共産党政権における教育はレーニン学校」と呼ばれる小学校に限られ、学童は基本的なプロパガンダが理解できる程度の読み書きを習うだけだった。

(中略)

10代の子供に「階級敵人」の処刑をさせるようなケースもあった。

 

>紅軍兵士たちは、地元の住民(※チベット人が翌年のために栽培していた大麦を刈り取ってしまった。この略奪行為―おそらく数千人の生死に影響したはず―を、毛沢東はいかにも彼らしい冗談ですませてしまった。「『これはわれわれの唯一の外債です』と毛はユーモラスに語った」と、アメリカ人エドガー・スノーが書いている。

 

>『毛沢東自伝』の大部分を構成するのは、1936年夏に毛沢東アメリカ人ジャーナリスト、エドガー・スノーのインタビューに応じた際の内容である。毛沢東が自分の人生について広範に語ったのは、このときだけだった。

スノーはまた、毛沢東および他の共産党員とのインタビューに圧倒的に依拠した内容の著書中国の赤い星』を発表し、中国共産党の血塗られた過去を消してイメージ回復の基礎を作った。

 

 毛沢東とスノーの出会いは偶然ではない。その年の春、毛沢東は上海の地下組織に対して自分の宣伝をしてくれる外国人ジャーナリストを探すよう依頼し、あわせて医者も1人見つけてほしいと頼んだ。 慎重な吟味の結果、エドガー・スノーに白羽の矢が立った。スノーは、毛沢東が求める資質をすべて備えていた―アメリカ人であり、『サタデー・イブニング・ポスト』や『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン』といった有力メディアに記事を書いており、共産党に好意的だった。

スノーは7月にレバノンアメリカ人医師ジョージ・ハテムを伴って革命根拠地に到着した。

ハテムはコミンテルンからの最高機密文書を薬箱に隠して持ち込んだ。

スノーは根拠地に3か月とどまった。ハテムのほうはその後死ぬまで共産党と行動を共にし、毛沢東の待医の一人となり、中国共産党の外国諜報組織でも働いた。

(中略)

毛沢東はAB(アンチ・ボルシェビキ)団の粛清など拷問や殺人の歴史を隠し、中国を横断した行軍に「長征」と言いう巧妙な名前を付け、濾定橋のような戦闘や英雄譚をでっちあげた

また、病気のときを除いて「長征6000マイルの道のりの大部分を下士官たちと同じように自分の足で歩いた」と語った。

モスクワとのつながりを完全に隠し、アメリカとの友好関係を望んでいる、とも語った。 多くの人々が、これに完全にだまされた。

 

 毛沢東はさらに用心のため、スノーがその後に書いたものをすべてチェックし、訂正や書き直しの筆を入れた。

(中略)

『中国の星』は1931年から38年にかけて冬に英語で出版され、西側世論を毛沢東に好意的に転換させるうえで大きな役割を果たした。

中国共産党は中国語での出版を計画し、不偏不党の印象を与えるべく『西行漫遊記』というタイトルをつけた。

『中国の赤い星』と『毛沢東自伝』に加えて、スノーの資料をもとにした本がもう一冊出版された。この本も、中立的に聞こえるよう『毛沢東印象記』というタイトルがつけられた。

 

『中国の赤い星』―および抜粋を編集した他の二冊―は、中国国内の急進的青年層に多大な影響を与えた。多くの若者がスノーの本を読んで共産党に入党した。

その中には、チベット族から初めて共産党員になった若者たちもいた。まさに、中国共産党ルネッサンスの始まりだった。

 

アメリカでは、1月22日付の『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン』紙が共産党側の主張にきわめて好意的なエドガー・スノーの記事を掲載した。記事は、「先の軍事衝突に関して初めて信頼すべき報告をお伝えする…」という書き出しで始まっていた。しかし、スノーの記事は香港在住の中国共産党スパイから聞いた話に全面的に依拠したものだった。

 

毛沢東は自分の主張を宣伝するうえでエドガー・スノーのような西側ジャーナリストが非常に役立つことに早くから気づいていたが、英米政府が蒋介石の行動を縛るうえでいかに有用であるかについてはなかなか理解せず、英米両国に対して極端な敵意を抱いていた。

1940年10月25日、毛沢東は党幹部を相手に、イギリスなどナチス・ドイツに占領されてしまえばよい、日本がずっと中国を占領しつづければよい、と話した。

「最も厄介で、最も危険で、最も不吉な展開」は蒋介石が「英米ブロックと手を結ぶことだ」と、毛沢東は語った。

 

毛沢東は本能的に法律を敵視しており、支配下の人民は法の保護を完全に剥奪されることになった。 毛沢東は1970年にエドガー・スノーに対して、自分のことを「無法無天、すなわち法律も限度もない人間だ」(「無法」が「無髪」と同音のため、誤訳されて「孤独の修行僧」と伝わってしまった)と話している。 以下略

 

【私の紅衛兵時代 ある映画監督の青春】陳凱歌著より

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>「傘を手にした修行僧毛沢東を描いた絵

「毛主席、安源へ向かう」

※「傘をさす修行僧」とは一種の言葉遊びの表現。傘をさすので「天が無く」、僧であれば「髪が無い」。しかし「髪」は中国語では「法」と同音だから、この句の意味は、「法も天も無視し、やりたいようにやる」ということになる。

 

「洗脳」って、怖ろしいですね。

アメリカが日本人を「洗脳」する。

さらに、中国共産党日本共産党が日本人を洗脳する…

結局、レーニンから始まった共産主義に日本人が血を流して抵抗しながら…内部(日本人協力者)から「洗脳」されてしまう…

     

大原社会問題研究所より

証言:日本の社会運動

【戦時抵抗と政治犯の釈放】

―岩田英一氏に聞く(3・完)

吉田 健二

日本共産党はまずは党再建の重要拠点として、通信各社やの全国紙、またNHKなどに党員記者の確保と細胞を結成することを優先した。新聞単一(日本新聞通信放送労働組合の略称、1946年2月9日設立―編者注)は事実上、共産党オルグして結成したのです。

(中略)

当時「朝日」の論説委員で入党したばかりの聴濤克巳(きくなみ・かつみ)らが中心となって、またGHQのセオドア・コーエンという労働課長の協力を得て結成したのです。

以下略

 

GHQ 知られざる諜報戦】

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>G2のCIS作戦部特殊活動家からの報告書には、二人に関してこう記されている。

㊙調査対象者セオドア・コーエン。経済科学局労働課長

㊙調査対象者=アンソニー・コンスタチーノ。経済科学局労働関係担当。

 

1945年12月、コーエンはGHQの経済科学局労働課長として、等級なし年棒1万ドルで雇われた。この責任ある地位を通じて、コーエンはコンスタチーノとともに一貫して労働課の仕事に極左的な政策を持ちこもうと努め、ついては自らの権限と業務管轄領域を逸脱してまで「読売争議」に干渉するようになった。

(中略)

相次いで起こったストライキやデモは、ことごとくコーエンとコンスタンチーノの不当な干渉によってもたらされたものである。

 CISの信頼できる日本人通報者によれば、コーエンは日本共産党幹部である志賀義雄と会談して、次のように語ったという。

(中略)

コーエンが語ったというこの言葉は『アカハタ』の編集部員T.Yから、GHQに間接的に伝えられたものである。

以下略

 

ソ連コミンテルンアメリカの中枢部を動かし…中国を動かし…日本共産党を動かして…

日本国民は知らず知らず…自ら「反日」に向かっていったのですね。

こんな「反日」ゲームがいつまで続くのでしょうか?

朝日、毎日、読売(いまだに日本が中国を侵略したという説を記事に書いているが…)、NHK…その他のテレビ局等…日本国民を騙しているつもりが、自分たちの首を絞めているのに気が付いてください。

 

長い記事にお付き合いくださいまして有難うございます。

リンクフリーの記事です。皆様のお役に立てれば幸いです。