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前回【韓国が日米に捨てられる日が近づいている】の続きで、今回も韓国・文在寅大統領について書いていきます。
産経新聞2018.9.23
【文大統領は北で何を見たのか】李宗哲・龍谷大教授 寄稿
> 9月19日、北朝鮮が誇るマスゲームを鑑賞するため、平壌のメーデースタジアムを訪れた韓国大統領、文在寅は、15万人の平壌市民らの歓呼に演説でこう応えた。
「私は平壌の驚くべき発展を見た」
18日の平壌到着後、オープンカーから見渡した黎明通りに立ち並ぶ超高層マンションを念頭にそう言ったのだろうか。
(中略)
もしくは金正恩の執務室のある党本部庁舎を訪れたとき、車に乗ったまま入ることのできる、大理石の床にシャンデリアが輝く玄関を見てそう感じたのだろうか。
(中略)
独裁者は例外なく大きな建造物を好むという解釈だろう。古くは中国の秦の始皇帝、そして旧ソ連のスターリンがそうだった。自分の権威と力を誇示し、人々に畏敬の念を抱かせるためだ。平壌の代表的な建造物はほとんどソ連をまねたものだ。
文は19日の演説で「私は金正恩委員長と北朝鮮人民がどのような国を造ろうとしているかを胸を熱くして見た」とも述べた。
金正恩がこれからどのような国を造るつもりかは不明だが、いままでどのような国を造ってきたかは外部にも知られている。
政治犯収容所が辺境にまだ存続することは衛星写真でも確認されている。3万人を超える住民が命の危険を顧みず脱出した国である。
18日の夕食会の演説で文は、破格の歓迎ぶりに感動したのかこう切り出した。
「金正恩委員長と私は仲の良い恋人のように、共に手を握って軍事境界線を行き来した間柄だ」
※「赤文字」の「大理石の床」は、日本共産党の本部(代々木)も大理石の床だそうです。共産主義者は本当は「ブルジョア思考」なのでしょうね。
ガリガリにやせ細った北朝鮮の若い兵士が韓国側に亡命しようとして、板門店で銃で撃たれた話はまだ記憶に新しいですよね。
きっと…文はルーマニア・元大統領のチャウシェスク(元ルーマニア共産党書記長)のように“さっぱり忘れていた”のだろうと思います。
チャウシェスクも北朝鮮を訪問してマスゲームの歓迎を受けて感動したと言いますからね。 そして、自分も金王朝のような独裁者になりたいと夢見たのでしょう。
その末路は、夫婦で「蜂の巣」状態となってしまうのですが…
文には理解できないだろうねぇ…あの顔を見ればわかりますよね…
北朝鮮も旧ソ連や中華人民共和国顔負けの「ジェノサイド」を続けてきた国です。
【共産主義黒書 ―犯罪・テロル・抑圧―〈コミンテルン・アジア篇〉】
ステファヌ・クルトワ ジャン=ルイ・パネ ジャン=ルイ・マルゴランン著
>被告14号
囚人たちの上着の背中にはそれぞれ大きな番号が縫い付けてあった。最も重要な被告は1で、あと重要度にしたがって14号まで番号をつけられていた。
被告14号はソル・ジョンシクだった。
私にはほとんど彼が見分けられなかった。かつての情熱的で美しかったその顔は暗く、疲労と諦めをただよわせていた。 その暗鬱でやや切れ長の目からは輝きがすっかり消えていた。 彼の動作はロボットのようだった。
(中略)
被告のなかには、高位の役人が少なからずいた―とりわけ、共産党中央委員会の書記の一人、李スンヨブ、内務部の白享福、文化・宣伝副相の趙一明である。
ソルはこのグループのなかではむしろ“ざこ”だった。
多くは朝鮮南部の出身だった。
(中略)
処刑がどのくらいの数にのぼるかは分からないが北朝鮮の刑法から参考になる指標が引き出せるかもしれない——死刑をもって罰せられる犯罪は47をくだらないが、それは以下の分類できる。
(中略)
処刑の際、群衆は協力的な態度をとるように勧められ、その結果、叫び声や侮辱の言葉を発して判決言い渡しを迎え、投石することさえあるという。
時にはリンチまでが奨励され、群衆がスローガンを叫ぶなかで、死刑囚は死ぬまで殴られる。
(中略)
リ・スンオク夫人は労働党員で、幹部専用の必需品供給センターの責任者だった。
定期的に行われる粛清の犠牲者として、彼女は他の同志とともに逮捕された。
長時間、水責めと電気による拷問を受け、殴られ、睡眠を奪われ、ついに要求されるまま、とりわけ国家の財産を横領したと自白し、13年の懲役刑を宣告された。
公式には刑務所という言葉は使われていないが、それはまさしく刑務所であった。
2000人の女性を含む6000人の囚人は、この懲罰用複合施設のなかで、朝5時半から真夜中まで獣のように働き、スリッパ、ピストルのケース、バッグ、ベルト、爆薬用の雷管、造花などをつくらされた。
妊娠した受刑者は手荒な堕胎を強制された。 刑務所内で生まれた子どもみな、有無を言わさず窒息死させられる、あるいは喉を搔き切られたものだ。
(中略)
高く張り巡らされた有刺鉄線、獰猛なドイツ・シェパード、武装した看守、周囲にひろがる地雷原。 食料は不十分きわまり、外界からの孤立は完璧で、労働(毎日約十二時間に及ぶ鉱山や採石場での作業、灌漑水路の間削、木材伐採と、その後に加わる二時間の「政治教育」)は過酷だ。
しかし、ここで飢えこそが最悪の責め苦であるから、受刑者はどんなことをしてでも、蛙やネズミやミミズを捕まえて食べるのである。
(中略)
さらには、監視兵の射撃訓練用の生きた標的としてさえ、受刑者が使われることである。 加えて、拷問や性的暴力なども、北朝鮮における受刑者の生活のなかで最も衝撃的な側面のうちに数えられるものといえよう。
さらに付け加えられるべきは、責任は家族全体に及ぶものだという、体制の断定であろう。家族のうちたった一人が有罪判決を受けただけで、その全構成員が、それも多数にのぼる一家が、現に収容所に入れられている。
(中略)
国を脱出した青年、姜哲愌(カン・チョルファン)は、9歳の時に収容所に入った。
1977年のことだ。
彼は父と兄弟のうちの一人と、そして祖父母のうちの二人とともに拘禁されていた。
なぜなら、京都の在日朝鮮人団体の元責任者だった祖父が、資本主義国での生活に甘すぎる言辞を吐いたとして、1977年に逮捕されたからであった。
15歳になるまで、カン・チョルファンは収容所内で子ども用の規則にしたがって生活を送った。 朝は学校で、特に民族の天才、金日成の生涯を教えられ、午後は仕事(雑草とりや石拾いなど)というのが日課だった。
(中略)
安明哲(アン・ミョンチョル)という名のこの証言者によれば
(中略)
「独房で彼らはひざを折り曲げた脚と尻のあいだに太い木片を結わえつけられ、このようにしてひざまづいたまま放置される。血の循環が悪くなるため、ついには全般的な衰弱が引き起こされ、かりに釈放されたとしても、彼らはもう歩くことができず、数か月後には死にいたるであろう」
(中略)
処刑をするのはだれか? その選択は公安係官の裁量にまかされていた。 彼らは手を汚したくない時は銃殺し、断末魔の苦しみを見たい時はゆっくりと時間をかけて殺した。 こうして私は、棒による殴打や投石で、あるいはシャベルを使ってでも殺すことができることを知った。
時には、ゲームのように、目の玉を狙う射撃競争をして囚人を殺すこともあった。
処刑される者同士を戦わせて、殺し合いをさせたこともあった。
(…)私はこの目でむごたらしい殺され方をした死体を何度も見たことがある。
なかでも女性が穏やかに死ぬことはめったにない。
ナイフで切り裂かれた乳房、シャベルの柄をつっこまれた生殖器、金槌でへし折られた首(…)。
収容所では月並みきわまることだった。
(中略)
毎日平均4人から5人が死んでいった。 飢えや事故から、あるいは…処刑されて。
(中略)
なかには、囚人をむりやり有刺鉄線に登らせる者もいた。そうしておいて発砲し、脱走者を捕まえたふりをするのだ。
看守以外にも、犬も政治犯を監視していた。非常によく訓練されたこの恐るべき動物は、殺人機械として使われていたのだ。
1988年7月、第13収容所で二人の囚人が襲われたとき、あとに残ったのは囚人たちの骨だけだった。
1991年にも、15歳の少年二人がこれらの犬に貪り食われたことがある。
アンは、看守長と第13収容所の他の二人の基幹要因のあいだの会話を耳にしたと断言している。
ナチスの絶滅収容所だけのことと思われていたやり口が話題になっていたのだ。
そのうちの一人である副分隊長が言った。
「同志、私は昨日、第三局の煙突から煙が出ているのを見ました。 死体を圧縮して脂肪を搾り出しているというのはほんとうですか?」
看守長は、丘の近くの第三局のトンネルに一度行ったことがあると答えた。
「そこは血の臭いが」して、壁には髪の毛が貼りついていた…。 その夜は眠れなかったよ。 お前が見た煙は、犯罪者の骨を償却している煙だ。 けれど、誰にも言うなよ。 でないと後悔することになるぞ。 お前だって、いつ頭に黒いマメ(銃弾のこと)をくらうかわかったものじゃないからな」
他の看守のなかには、収容所で行われている実験、たとえば、囚人の肉体的抵抗力を研究するため、飢え死にするまで放っておくような実験のことをアンに話してくれた者もいた。
アンによると、
「こういった処刑や実験の担当者は人を殺す前に酒を飲んだものさ。 しかし、今では彼らも本物のエキスパートになっている。 囚人の頭の後ろを金槌で殴ってみる。 すると、不幸な連中は記憶を失ってしまう。 この半死人を射撃練習の生きた標的にするのだ。 第三局が実験材料に不足すると、“カラス”というあだ名の黒いトラックが新しい材料を探しにやってきて、囚人のあいだに恐怖をまき散らす。 カラスは月に一度は収容所に来て、40人から50人を連れ去るのだが、行き先はわからない…」
(中略)
ここでいったん列挙を中断し、党内の粛清についてと同じように、ごくおおまかな見積もりだけをしておきたい。
第22収容所に収容されているのは、1万人であり、証言者の推定によると、毎日5人が死んでいるわけだし、これに北朝鮮の強制収容所の被拘禁者の総数が20万人前後あることを考慮に入れれば、死者の合計数は一日で100人、一年で3万6500人に達することになる。
この数字に45年間(1953年―1998年の時期)をかけて得られる合計約150万人の死者について、朝鮮共産主義は直接責任があるわけだ。(以下略)
※「赤文字」で示した文章は…「朝鮮総連、日本共産党関係者」という意味が含まれています。
【金天海】Wikipediaより
※朝鮮南部(現韓国)出身で、元日本共産党中央委員、中国共産党の意向に従い朝鮮総連を結成、北朝鮮に渡って粛清されたといわれています。
また、「女性の処刑方法」については、「通州事件」で日本人が中国人に虐殺された方法と同じであり、韓国の「保導連盟事件(済州島四・三事件など)」の処刑方法と全く同じです。
これは、中国大陸に残る伝統的な虐殺方法です。
長い文章になりましたが、脱北した証言者達は現在「韓国」在住なんですよ。
それが、なぜ、韓国の文大統領はニコニコとした顔で「私は金正恩委員長と北朝鮮人民がどのような国を造ろうとしているかを胸を熱くして見た」「金正恩委員長と私は仲の良い恋人のように、共に手を握って軍事境界線を行き来した間柄だ」と、恥ずかしげもなく言えるのでしょうか?
精神的破綻者じゃなくては出来ない所作ではないでしょうか。
最後までお付き合いくださいまして有難うございます。
リンクフリーの記事です。皆様のお役に立てれば幸いです。
※誤字、脱字が多々あると思いますがご容赦願います<m(__)m>