今日もお立ち寄り有難うございます。
前回の続きです。
日本共産党 2010.8.16
韓国民団 光復節中央記念式
志位和夫委員長あいさつ(全文)
今年、2010年は、日本帝国主義が、韓国を「併合」してから100年目の年となります。
「韓国併合」は、日本軍による繰り返しの侵略、王妃の殺害、国王・政府要人への脅迫、民衆の抵抗の軍事的圧殺によって実現されたものであり、「韓国併合条約」は、日本が韓国に対して、軍事的強圧によって一方的におしつけた不法・不当な条約です。(拍手)
これは前回にも書きましたが、「李氏朝鮮」は「大清帝国」の属邦だったのを、「日清戦争」の勝利により、「下関条約」で、朝鮮を独立させたのです。
これは、世界で認められている条約です。
それで、「大韓帝国」が誕生したのです。
しかし、国王があまりにも情けなく、妃の出身である 閔一派が好き勝手にしていたので、国はすでに破綻していたのです。
とても独立国として自立できなかったので、日本が保護国としたのです。
そのどこが、「日本軍の繰り返し侵略行為だった」と言えるのでしょうか?
『朝鮮雑記』日本人が見た1894年の李氏朝鮮
朝鮮国高宗は、温(おだ)やかで、親しみやすく、節度もある。
ところが、このように君主の美質を具えているにもかかわらず、
(※1)寵妃がその愛を 恣(ほしいい)ままにした結果、勢家(権力を持った氏族)の跋扈(のさばり)を制することができなかった。
(※1)寵妃、勢家の跋扈
高宗の時代、とくに宮廷では、皇后である閔妃(びんぴ)一族(閔氏)の勢力と、国王の父である大院君の勢力とが対立していた。
高宗が閔妃を寵愛するあまり、その一族の影響力拡大を許したことで、1882年、大院君が主導する壬午事変が起こる。
これにより、日本公使館が襲われ、10数人の日本人が殺害された。
そのうえ、閔妃の要請を受けた清の軍事介入を招き、大院君は幽閉の憂き目にあう。
要するに、国王が王妃の尻の下に敷かれて、自分の父親を失脚させたということですね。 早い話がバカ息子ということですね。
この国内の権力争いで、日本の大使館が巻き添えを食ったということでしょうか。
王妃一族の閔妃が朝鮮(韓国)でどのような影響力を示していたかというと…
閔妃はその政治的な性向から改革に強く抵抗した反逆者であったが、人格的にもそれほど肯定できる人物ではなかった。閔妃は王妃になって以来、高宗の愛妾たちを一人残らず捕らえて拷問したり殺したりしたと伝えられている。
(中略)
閔妃は高宗の愛妾たちを虐待することで高宗を掌握したのである。
また、閔妃は無知で強欲で、ひどく利己的であった。
(中略)
閔妃が政権を掌握した後、このような4年が流れると、朝鮮の国庫は底をつき、すべての公務員への俸給が滞るようになった。 以来5年間、朝鮮の文武百官は政府から一銭の給料ももらえなかった。
俸禄が出ないと、官僚たちは利権ブローカーとなって蓄財し、人民の暮らしは日に日に悪化していった。 閔妃だけではなかった。
閔妃が朝鮮の国政を壟断(ろうだん)した22年の間、閔妃の一族であるヨ興(よふん)閔氏らは朝鮮のあらゆる要職を独占して、庶民の膏血(こうけつ)をしぼった。
(中略)
つまり、閔妃は朝鮮の自主独立を願った救国の希望ではなく、朝鮮を滅ぼした亡国の元凶だったのである。
独立党の指導者で清国からの独立と、朝鮮の近代化を目指して、日本に亡命してきた金玉均(キム・オッキュン)を上海に呼び出して殺害したのは、他でもない 閔妃です。
さて、志位和夫はその悪女を日本軍が殺害したと主張しますが…
『悲しい歴史の国の韓国人』宮脇淳子著
閔妃暗殺の首謀者はじつは大院君だった⁉
三国干渉で日本が譲歩して遼東半島を清に返還させられたのを見た閔妃は、今度は日本を見捨ててロシア側につきます。
閔妃とその一族の仕打ちを見た日本は態度を硬化させます。
日本が日清戦争を戦ったのは、ロシアの南下を防ぐためであったにもかかわらず、朝鮮の支配階級が日本を裏切ってロシアを呼び込んだからです。
(中略)
教科書などに載っていて有名な閔妃の写真が偽物だったことがつい最近明らかになりました。 これは日本にとってたいへんな重要な事実です。
なぜなら、三浦梧楼の配下の者は、この閔妃の写真を手にして王宮に侵入し、写真と見比べながら首実験をして閔妃を殺したということになっているからです。
(中略)
実行犯は閔妃の顔を知っている人物だったということです。
そうなれば犯人は大院君に決まっています。
つまり…志位和夫は
朝鮮(韓国)を食い物にしてきた王妃に、もっと朝鮮(韓国)人民の生き血を吸わせたかったと言いたいんですね。
日韓併合前の朝鮮(韓国)の庶民の暮らし
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