民主主義を壊したマスメディア

今日もお立ち寄り有難うございます。

 

朝日新聞 2018.3.20

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森友問題「権力の乱用、私物化です」自由・小沢代表

 

(森友問題は)国民財産を特定の人にほぼ無償で払い下げるという問題で、あまりにもレベルの低い権力の乱用、私物化です。(文書改ざん)は財務官僚の劣化も問題だけどね、やっぱ、都合の悪いことを役人に押しつけようという政治家の根性はもっと下がるんじゃないですか。30%まだあるのか。っちゅう感じだな。

 

彼(安倍晋三首相)の心理は分からないけど、このままズルズルと恥をさらしていくっちゅうのは、普通の政治家だと、ちょっと耐えられないよね。やっぱり潔くこの際、身を引く方がいいだろうとボクは思いますね。 以下略

 

あれまあ! この御仁はどの口で仰っているのでしょうか(呆)

 

読売新聞 2011.2.2

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 東京第5検察審査会の審査では、これらの書類のほか、小沢元代表の下に秘書らが毎朝集まり、打ち合わせをしていた実態を記した資料も提出された。

 審査会関係者は、「小沢事務所では上下関係が明確で、元代表の指示なしで動くのかという素朴な疑問はあった」と話す。 以下略

 

産経新聞 2010.8.25

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小沢一郎民主党幹事長の後援会の中核メンバーだったゼネコン15社が、小沢氏地元・岩手の胆沢ダムの大型工事14件を総額約8350億円で受注し、落札率が94.5%に上っていたことが24日、産経新聞の調べで分かった。 以下略

 

小沢一郎 虚飾の支配者】松田賢弥

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地元・岩手の「恐怖支配」

 欅の会元幹部は11月19日、雪の降る盛岡の小さな料亭でこう吐露した。

 「欅の会は小沢がいかに岩手を裾野まで組織しているのかを誇示するための団体でもある。小沢が新進党時代のことだが、地元の建設業者はこの会に入会しなければ、小沢事務所に目を付けられた。いまだに小沢の選挙手法は、地元業者に名簿を要求することから始まる。業者は断ったり、名簿の人数が少なかったりすると、ランクを落とされて、公共事業の入札で不利に働くのではないかという恐怖心を抱かざるを得ない。仕事で干されないために必死にやる。 それが小沢の選挙だ」

 

「恐怖支配」なのである。選挙協力だけではない。地元・岩手の建設業者は多額の政治献金も行っている。以下略

小沢一郎の場合は、すべて“秘書が勝手にやった”ということで…司直の手が伸びると…秘書が謎の自殺、または失踪してしまうのです。

 

【闇将軍 野中広務小沢一郎の正体】松田賢弥

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「次はオレの番か…」

 1989年4月26日、竹下登の秘書・青木伊平が自殺した。竹下首相がリクルート疑惑の責任をとって辞任表明した翌日のことだった。旧田中派内において、青木と中條は昵懇の仲で、派内の秘書を束ねる役目を果たしている。

 

 青木の死の報を聞いてだれよりも先に駆けつけたのが中條だったが、小沢の後援会幹部によると、そのとき中條は青木の遺体にとりすがって、声には出さないが、「次はオレの番か…」と号泣した。

 

 竹下の周辺には数々のどす黒い疑惑がつきまとっていて、噴出寸前だった。“竹下の金庫番”といわれた青木の立場は非常に危うく、捜査当局からも竹下疑惑解明の突破口と目されていた。

 中條は、青木の非業の死から何かを感じ取っていたのだろうか。

(中略)

中條については、秘書仲間が「実直な性格だった」「帰りに焼き鳥屋で一杯やっては、決まって『オレはやるぞ』と言うのが口癖だった」と述懐するように、小沢のために懸命に働いた。

(中略)

 1991年3月、中條は不自然なかたちで秘書を退職し、その挨拶状を関係者に送っている。(中略)中條から「定年退職」とも聞かされていた。その幹部は、「秘書の定年なんて聞いたことがない」と、小沢への不満をあらわにした。

(中略)

1989年、リクルート系のエヌ・エフ・ケーという会社が土地転がしに多額融資をしていたことが明らかになったが、中條がそこの役員をつとめていたことが判明した。その後、東京佐川急便事件に関連した芝興産の役員もしていたことが発覚し…

(中略)

「あの隠しごとができない中條が、小沢の指示なしで企業の役員に就くなんて考えられない。判断はすべて小沢がしていたはず」

 そうだとすれば、中條は小沢の「負の部分」を背負ったまま、死んでいったことになる。彼は小沢の「負の部分」のためだけの“汚れ役”であり、“便利屋”だったのだろうか。

(中略)

 小田島と佐藤は小沢の陰で“利権あさり”をしていた形跡がある。それは少なくとも1991年、赤坂の事務所を引き払うまで続いていた。この点でも、小田島は「五年前(1988年)ごろ辞め、その理由はわからない」という小沢事務所の説明とは矛盾している。

(中略)

 小田島と小沢の関係が自白のもとにさらされれば、小沢が“利権あさり”になんらかのかたちで関与していたことが露呈してしまう。そのことを恐れているようだった。

 ところで、小田島失踪の原因となったと思われる国家石油備蓄基地にからむ事件とはなんだろうか―。

(中略)

いったい、小田島と1億2千万円はどこに消えていったのだろうか。

 

小沢一郎こそ、“権力” で、国民の税金(公共事業)を“私物化”していますよね。

そういえば…西松建設に絡んでも、関係者が自殺しましたね。

鳩山由紀夫氏の架空名義献金で秘書が二人、謎の失踪をしていますよね。

小沢・鳩山両氏…偶然にも中国共産党の走狗になっていますし、怖ろしい話ですね。

 

 ここから題名に絡んでの記事を書きたいと思います。

冒頭の「朝日新聞」の小沢氏の発言記事ですが、最近、朝日が頻繁に小沢氏の発言記事を書いている理由を書いていきたいと思います。

 

【闇将軍 野中広務小沢一郎の正体】松田賢弥著 より引用

 小沢はそんな発言はしていないと開き直ったばかりか、5月16日、千葉市幕張での講演で、「朝日新聞ちゅうのはアカ新聞かブラックジャーナリズムかと思った」と罵倒したうえ、返す刀で、「戦前、軍部の手先になって『鬼畜米英』『一億玉砕』『聖戦完遂』『大東亜共栄圏』を唱えたマスコミそのものだ。今日も同じ過ちを犯そうとしている」

 感情むき出しにしてメディアを批判した。小沢の攻勢は以後も続いた。

「個人的な問題だけで怒っているのではない。政治家や公職にある人が、どれだけペン、報道の暴力に泣き寝入りしているか数知れない」(5月21日、岩手県大船渡市で)

「菓子折りの一つでも持ってきて挨拶するならまだしもだが、挨拶するどころか、ますますあることないことを報道しまくっている」(6月4日、大阪市で)

 

ここまで、引用しながら、「そうだ!その通り!それでも懲りずに現在も、安倍政権打倒のためには、あること、ないことを報道しまくり、多くの政治家や公職にある人たちが報道の暴力に泣かされている! まさしくブラックジャーナリズムそのものだ!」と私も思いました(※ただし、「軍部の手先」は間違っています。近衛内閣に戦争を煽った(南進論)のは、ゾルゲの協力者の朝日新聞記者:尾崎秀実(ソ連のスパイ)だからです。 よって、朝日新聞は自発的に国民に戦争を煽っていたわけです)。

 

カネに汚い政治家でも、時にまともなことを言うものだなと思ったのですが…

その暴力装置であるアカ新聞の記事に載っている小沢氏の言葉に違和感を覚えてしまうのです。

 

『闇将軍 野中広務小沢一郎の正体』松田賢弥著より引用

1994年10月中旬のことだった。

(中略)

 じつは、朝日新聞社内では、小沢が「アカ新聞」発言する前から「小沢取材チーム」を編成し、政治部と社会部から10名近くの記者を投入して、小沢の人脈・金脈をテーマに取材をしていた。永田町にもその話はすぐに広まった。

 

 「小沢リポートは長期連載で一面に掲載。朝日は総力をあげて、小沢一郎と全面対決する意気込みだ」

 小沢の「アカ新聞」発言は、その小沢リポートを紙面に掲載するのは絶妙のタイミングとみられた。 ところが、実際には、いつまでたっても掲載される気配がなかった。

 ある朝日新聞政治部記者は、「小沢リポートの連載がスタートしないのは、単に準備不足のため」と言っていたが、ほんとうにそれだけだったとは思えない。

(中略)

 国会は衆議院予算委員会の真っ最中。しかも本社でなく、記者の出入りが絶えないあわただしい国会記者会館に、政治部長みずからが出向き、記者を呼び集めるというのは異例のことだった。

 駆けつけた20名弱の記者たちを前に、秋山部長はこう切り出した。

 

 小沢一郎氏とのこれまでの対立状態では、小沢氏から直接取材できない。それは新・新党結成のなかではいかにもまずい。直接取材できるパイプをつくるため、近く小沢氏のインタビュー記事を出したい」

 この提案に驚きの表情を示した記者たちに、秋山部長はこう弁明した。

 

「しかし、記事が出たからといって、小沢氏に屈するものではないという信念をもっている。明日から、たとえ激しくケンカしてもかまわない。私が責任をとる」

 

 ようするに、小沢との関係を修復するために、小沢のインタビュー記事を載せる、その内諾は小沢から得ている、ぜひとも記事掲載を了承してほしい、という要請だった。

 これこそ、“手打ち”そのものであり、現場の記者たちにしてみれば、黙って聞ける話ではなかった。当然ながら、この事情説明に、次々に反論が飛び出した。

(中略)

賛成の意見は出ず、口をついて出るのは批判ばかりだったという。

突き上げられるような格好になった秋山はだんだんいらだち、ときにムッとしながら、このような趣旨の発言で押し切った。

 

「“手打ち”だ……。タイミングがいいんだ。(時事通信社政治部長で“小沢番”だった田崎史郎が『文藝春秋』1994年10月号で小沢のオフレコ発言の一部を暴露報道した)“田崎メモ”の公表で、小沢氏が直接取材を受けたがらなくなっている。インタビューに編集局長は消極的だ。しかし、オレが責任をもつ」

(中略)

社内の部下からも「ジャーナリズムの自殺行為」とまでいわれた“小沢インタビュー”は、説明会から3日後の10月15日付朝刊7面に、ほぼ1ページを埋め尽くすかたちで掲載された。インタビューは担当記者ではなく、秋山部長自身だった

(中略)

朝日新聞だけではない。

同じころの10月9日にオンエアされたTBSの「報道特集」にも、小沢は1年ぶりに登場している。

 TBSと小沢のあいだにも対立状態にあった。

1993年夏の総選挙時、TBSの報道番組「スペースJ」が、小沢から新生党候補への2千万円の資金提供の問題を報じた。 これに小沢は「ヤラセ番組だ」とかみついたのである。

 1年半ぶりの小沢の出演にあたり、番組の冒頭で、進行役の阿川佐和子は次のように述べた。

「新政党とTBSのあいだでは、放送内容や取材方法をめぐり行き違いがあったが、今後、互いの立場を理解、尊重し、話し合っていくことで合意した」

 つまり、TBSも小沢一郎と談合して、新政党寄りの報道をします、という宣言をしたということでしょうか。

 

椿事件】Wipedia より

椿事件(つばきじけん)は、1993年に起きた全国朝日放送(愛称および現社名:テレビ朝日)による放送法違反(政治的な偏向報道)が疑われた事件のことである。 当時、テレビ朝日の取締役報道局長であった椿貞良の日本民間放送連盟(民放連)会合での発言に端を発したことからこの名で呼ばれる。

(中略)

1993年6月の衆議院解散(嘘つき解散)後、7月18日に第40回衆議院議員総選挙が行われ、与党自由民主党が解散前の議席数を維持したものの過半数を割り、非自民で構成される細川連立政権が誕生自民党は結党以来初めて野党に転落した。

 

9月21日、日本民間放送連盟の第6回放送番組審査会の会合が開かれ、そのなかで椿は「『ニュースステーション』に圧力をかけ続けてきた自民党守旧派は許せない」と語り、選挙時の局の報道姿勢に関して、

 

小沢一郎のけじめをことさらに追及する必要はない。今は自民党政権の存続を絶対に阻止して、なんでもよいから反自民連立政権を成立させる手助けになるような報道しようではないか」

 

・「日本共産党に意見表明の機会を与えることはかえってフェアネスではない」

 

との方針で局内をまとめた、という趣旨の発言を行った。また会合メンバーのひとりは、この際梶山静六幹事長、佐藤孝行総務会長のツーショットを報道するだけで視聴者に悪代官の印象を与え、自民党のイメージダウンになった」、「羽田外相=誠実、細川首相=ノーブル、武村官房長官ムーミンパパのキャラクター」(なので視聴者によい印象を与えられた)という趣旨を発言するのを聞いた、としている。

 

総選挙後、細川内閣支持率の高さを見た加藤紘一が「ウッチャンナンチャンならぬ6チャン(TBS)10チャン(テレビ朝日)の影響だな」とコメントし、非自民政権成立に報道機関が大きな力を持っていたことを暗示している。 以下略

 

【日本政治の正体】田原総一郎

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「日本の国は、まさに天皇を中心としている神の国であるぞ、ということを国民の皆さんにしっかりと承知していただく。その思いでわれわれが活動して30年」

 5月、森が神道政治連盟国会議員懇談会であいさつした一節である。時代錯誤の発言だと、さっそく問題になった。

 実はこれは、森喜朗の旺盛なサービス精神から出た言葉で、さほど深い意味はない。

神主さんの集まりではそう言ったが、坊さんばかりだったら仏の国、キリスト教の牧師の集まりだったらゴッドの国と言うだろう、という程度の話である。

(中略)

しかし、マスコミは1行しか書かない。しかも喧嘩中だから、いちばん問題になりそうな部分だけを選んで書く。6月には解散総選挙を前にして「無党派層は寝ていてくれればいい」と発言したと問題にされたが、「でも、そういうわけにはいかないよな」と続くのだ。 しかし、マスコミは前半分だけ書く。

(中略)

総選挙で自民党は38議席を減らした。相変わらずマスコミは悪口しか書かない。

森喜朗の人気はどんどん落ちていく。 そんなとき「えひめ丸」事件が起こった。

(中略)

ところがこの日、森は総理になって初めて、長く休んでいたゴルフをした。森は優しい男だから、秘書官全員に休暇を出していた。側近がおらず、SPの持つ携帯で連絡をとり合ったようだが、情報がなかなか入らない。

(中略)

このときテレビ朝日系『ニュースステーション』が森喜朗がゴルフをしている映像を流したが、これは当日の映像ではない。

ずっと以前に報道陣に対するサービスとしてゴルフ姿を撮影させたもので、森は記者たちを喜ばせようと思ったのだろう、おどけたり踊ったりしていた。

ところがテレビは怖い。

森首相が「えひめ丸」事件の当日にゴルフをしていたどころか当日にゴルフをしながらおどけたり踊ったりしていたという話になってしまった。

これが決定的だった。

森内閣の支持率は1ケタまで落ち込んで「消費税並み」と揶揄され、「蜃気楼内閣」というあだ名までついた。

森喜朗への私の印象を一言でいえば、首相就任時から「密室・談合」というレッテルを貼られ、いささか気の毒な政治家であったと思う。 以下略

 

民主党政権誕生の時も、マスメディアは民主党の応援をしていましたよね。

麻生太郎を「アホ太郎」と揶揄していた民主党支持者がいましたが、マスメディアの応援を受けた鳩山由紀夫は、とんでもない“うつけもの”でしたよね。

最初の支持率の高さは、マスメディアの宣伝がそうさせたのでしょうね。

 

中国共産党が「世論を作るのはマスコミだ」と目をつけたのは正しかった?ようです。

 

最後までお付き合いくださいまして有難うございます。

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