日本の国会が共産主義思想になった

今日もお立ち寄り有難うございます。

 

産経新聞2019.6.8

f:id:chaonyanko2:20190610135234p:plain

自民党小泉進次郎厚生労働部会長は6日付のブログで、北方領土を戦争で取り返す是非に言及した丸山穂高衆議院に対する同日の衆院本会議での糾弾決議案採択を棄権したことについて、党から厳重注意処分を受けたと明らかにした。

 

こら!自民党…「自由民主党」の名前が泣くぞ!

「戦争」の議論も出来ないのか?

 

そもそも、北方領土はロシア(旧ソ連)が不法に武力進入してきて占拠してしまった島々です。 それを反省しないどころか、のらりくらりと騙し騙しで今に至っているわけです。しかも、北方領土で軍事訓練までしているのです。

この匪賊国家は中国や韓国とたいして変わりません。

 

「戦争議論」を「タブー化」するということは、「言論封鎖」と同じことではないでしょうか。

日本はいつのまにか、「中国化」「韓国化」してきているようです。

 

中国や韓国では「親日的」な言論は「批判(吊るし上げ)」にあいます。

警察に捕まったり、財産没収されたり、軟禁されたりします。

 

共産主義では「批判闘争大会、総括、自己批判」という「吊るし上げ大会」というのがありますが、今回の丸山氏への「糾弾決議案」は、まさしく「批判闘争大会(吊るし上げ大会)」といえるのではないでしょうか。

 

中国の文化大革命では、「紅衛兵」と称する学生たちが「造反有理」の名の下、自分の親、恩師、その他沢山の方々を「批判闘争大会」に引っ張り出して殺戮を繰り返したのです。

 

文化大革命では何千万人という中国人民が批判闘争大会に引きずり出されて、公開処刑されていったことで有名ですが…

     ⇓

【マオ 誰も知らなかった毛沢東ユン・チアン&ジョン・ハリディ著より

f:id:chaonyanko2:20190610155550p:plain

f:id:chaonyanko2:20190610155639j:plain

 

社会党議員で、旧民主党議員の仙谷由人大臣(当時)が、「事業仕分け」を「文化大革命が起きている」と嬉々としてインタビューに答えていました。

 

非常識極まりない言葉ですが…

 

この時、なぜ、旧民主党内から「糾弾決議案」が出されなかったのでしょうか?

中国人民の命をどう思っているのでしょうか?

被害に遭った中国人民に謝罪すべきです。

仙谷氏の方が、絶対に「非常識発言」だと思うのですが。

   

  

共産主義思想は「一つの考え」しか認めません。

自分達の思想に合致しないと認めたら…自己批判をさせます。

恐怖心を煽って、暴力的に自分たちの思想を押しつけるのです。

f:id:chaonyanko2:20190610142719p:plain

 

日本の大学も「文化大革命」の、「造反有理」「毛沢東思想」を模倣した学生運動が盛んになりました。

f:id:chaonyanko2:20190610223215p:plain

f:id:chaonyanko2:20190610223244p:plain

 

共産主義思想に染まった、日本版紅衛兵連合赤軍は「総括」といって、仲間内で「批判闘争大会」を催して、残忍な方法で殺害しました。

「リンチ」と一言で片づけられないものがあります。

妊娠した女性のお腹を切り裂き、胎児を殺す…

まさしく、中国や韓国で行われていた「凌遅刑」を再現したようなことが行われていました。

f:id:chaonyanko2:20190610163039p:plain

 

日本の国会が、まさかの「吊るし上げ大会」が決議されたなんて…

国会ですからね、まさか「公開処刑」までしないでしょうが、これで丸山議員を批判大会で晒しものにして、議員生命を絶たそうとしているのですから、ある意味、「公開処刑」と言えるのではないでしょうか。

一体、誰がこんな愚案(糾弾決議案)を決めたのでしょうか?

名前を出してください。

 

 

小泉進次郎議員は「民主主義」をよく理解された議員さんだと思います。

今は悔しい思いでしょうが、今後のご活躍を楽しみにしております。

 

そして丸山穂高議員には、今後は「禁酒」を心がけてください。

お酒で人生を狂わせた人は沢山います。

若い時の失敗を今後に生かしていただければと思います。

 

最後までお読みくださいまして有難うございます。

誤字、脱字がございましたらご容赦くださいませ。

リンク・フリーの記事です。皆様のお役に立てましたら幸いです。 

中国共産党の正体は『匪賊』だった。

今日もお立ち寄り有難うございます。

 

今年はいつになく日本のメディアも『天安門事件』を大々的に取り上げております。

とても良い傾向ですね。

そもそも、中国共産党政府の残虐さはどこからくるのだろう…

などと考えたことはないですか。

f:id:chaonyanko2:20190607155819p:plain

 

中国、朝鮮(韓国)、ロシア(旧ソ連)の残虐さも相当なものがありますが、ここでは中国や朝鮮半島の考え方や、中国共産党の成り立ちを書いて行きたいと思います。

 

支那豚の楽園』ブログに「匪賊の天国支那」というタイトルでも書いていますので、読んでいただけたらと思います。

(心配なのは8年前に突然音沙汰無しになった支那豚さんの安否です)

 

 >実際にシナの皇帝になった人で、匪賊出身の人が何人かいた。泥棒といい、強盗といい、いくら汚い手を使っても、最後には勝利を手に入れたら、王様になる。

その時、天下の法律、制度は全て王様の都合のよいものになる。

勝てば官軍、敗ければ賊軍

シナ人にとって、捕まえられた泥棒、強盗は運が悪いだけ、運がよければ成功者となる。 過程より結果の方が重要、そのような思想、道徳観を持つシナ人は強盗等の凶悪犯罪への意識は薄い。

 

シナ共産党も、もともとは一つの匪賊集団である。何人かの高級幹部も本物の山賊出身。 二十世紀二、三十年代に、シナ共産党は江西、湖南 陜北でソビエト拠点、紅軍(赤軍)部隊を設立した。シナ共産党の紅軍はひとつの村に着いたら、人を派遣して村のお金持ちの家を探す、その後、紅軍は一気に出動し、お金持ちの家の財産を略奪する。 以上の方法以外に、シナ共産党は当、琿の経費問題を解決するために、匪賊集団と同じやり方で、地主やお金持ち本人あるいは家族を拉致し、人質の家族に身代金を要求する。

 

 シナ共産党の紅軍部隊の当時の革命スローガンはとても現実的なスローガンであった。それは、紅軍の兵士になったら、お金、女をもらえる待倒那打下楡林城、一人一個女学生」「楡林白を攻めてきたら、兵士は一人につき女学生をもらえる)。この言葉は、シナ共産党が陜北にいた頃、部隊兵士の中で流行していた歌である。

だから、長い期間、シナ共産党はシナ国民党に「共匪」と呼ばれていた。 つまり、現在シナの政権を握っているシナ共産党が、武装強盗グループだったことは誰も否定できない事実がある。 以下略

 

このブログの内容を証明する日本の戦前の記事があります。

   ⇓

神戸大学新聞文庫 1920.10.9(大正9) 大阪毎日新聞

過激化せる間島匪賊團 支那側の責任重大 外務省の琿春事件公表

f:id:chaonyanko2:20190607164340j:plain

 >昨年三月朝鮮独立示威運動勃発以来多数の不逞鮮人間島地方支那官憲の取締緩慢なるに乗じ此地を不逞運動の策源地として其暴威を逞うし密に露領方面より武器弾薬の供給を受け昨年五月間島帝国総領事館の一部を焼きたるを手始めに屡次帝国国共内に襲撃して多数の日鮮良民を殺害し公衙を爆破し朝鮮銀行護送現金を強奪し商埠地内において白昼国警察官吏を殺害するなど所在残忍兇行の有らん限りを尽し最近に至りては各地に兵舎を設け…

(中略)

本月(十月)二日 多数の不逞鮮人 露国過激派、馬触並に支那官兵の服装をなせる多数の支那人より成る匪賊の一団は在琿春帝国領事館を襲い郵便室外一棟を除き本館、官舎等悉く灰儘に帰せしめ佐谷警察署長を始め十数名の帝国警察官の殺傷せられたる外商埠地内に火を放ち邦人中多数の被害者を出し老幼婦女子にして見るに忍びざる虐殺を受けたるものがあるが

以下略

 

神戸大学新聞文庫 1920.10.12 大阪毎日新聞

【惨儋たる災後の琿春 邦人は斯うして虐殺された 再度来襲した匪賊団の系統「警源特電十日」/ 大活動開始されん(間島特電十日発)/ 禍根を将来に絶たん 堺間島総領事代理の論告(間島特電十日発)】

f:id:chaonyanko2:20190607171715j:plain

 

 さて…この残虐な間島の匪賊が邦人を襲った話ですが、中国や韓国、北朝鮮では

「日本軍が朝鮮人を虐殺した」ことに話がすり替わっています。

彼らが使っている百科事典では…

f:id:chaonyanko2:20190607172648p:plain

 

それはなぜかと申しますと、「間島」にいた朝鮮人支那人匪賊たちが…

中国共産党」に組み込まれていったからです。

つまり、自分たちが「匪賊出身」だったことを隠すためではないでしょうか。

それにしても、なんでもかんでも自分たちのやった罪を「日本軍」のせいにしますね。

彼等は「嘘をつくのは恥」とは考えていないですね。

「嘘をついたもの勝ち」と思っているのではないでしょうか。

 

抗日パルチザン Wikipedia】より

沿海州を中心に、シベリアには多くの高麗人が住んでいて、ロシア国籍を持つものも多かった。彼らの中には、徴兵で独ソ戦を戦った後に帰還し、パルチザン部隊を立ち上げる者もいた。

 

また、義兵闘争のころから沿海州に逃れ、独立運動をくりひろげてきた朝鮮人亡命者も多く、その一人である李東輝が上海臨時政府の国務総理になり、レーニンから資金援助を得たこともあって、高麗人パルチザンは抗日独立の旗をかかげていた

中でも朴イリア(エルニアとも)率いるサハリン部隊は、1920年大正9年)、尼港事件の襲撃に加わって有名になった。

中国政府の調べでは尼港事件における赤軍パルチザン4300人のうち、朝鮮人が1000人を占めていた。

 

もっともこの尼港事件により、日本における当時のパルチザンの一般的なイメージは、匪賊と変わらないとする方向へ傾いた。

(中略)

満州抗日パルチザン

中国共産党に吸収されたパルチザン

1922年(大正11年)の末、日本軍の撤退を受けたシベリアは、ソビエト共産党によって掌握され、日本との関係修復のために、独立をめざす朝鮮人パルチザン武装解除された。 

(中略)

1930年(昭和5年)、コミンテルンの意向があり、満州の朝鮮共産党は、中国共産党に吸収されることとなる 中国共産党満州省委は、この方針に基づき「赤い五月」行動を指令した。 朝鮮族の多い間島ではどれほど熱心にこの指令を実行するかで、朝鮮人中国共産党入党の許可を決める、というような方針があり、間島五・三〇事件(間島暴動)が発生する。

最初に行動を起こした部隊を率いていた人物の一人は、金一星(キム・イルソン)という龍井の大成中学生だった。 この暴動は断続的に翌年の春まで続くが、襲撃されたのは電気会社や鉄橋などの日本の施設と、富裕な朝鮮人・中国人で100人を超える犠牲者もすべて朝鮮人・中国人だった。

 

1932年(昭和7年)、関東軍支配下満州国が成立すると、満州全土で、反満抗日を旗印にかかげる武装団体が立ち上がった。

北軍閥、馬賊、宗教系武装団、朝鮮民族独立武装団、そして、朝鮮人を含む中国共産党パルチザンである。

(中略)

中国共産党による組織化は遅れたが、パルチザンの核はすでにできていた。

共産主義者の詩人・槇村浩が、高知にいながら日本共産党の機関紙・無産党新聞の記事を見て、想像によって『間島パルチザンの歌』を作り、「プロレタリア文学」に発表したのが1932年(昭和7年)の春である。

(中略)

東北人民革命軍は、資金が欠乏したていたためか、東興事件のように、略奪、拉致を常としていて、『間島パルチザンの歌』のイメージからはほど遠かった。

また内紛も多く、「民生団事件」では400名あまりの朝鮮人隊員が粛清されたといわれる。

民生団とは、1932年(昭和7年)に朝鮮総督府が間島に発足させた民族主義反共朝鮮人組織だったが、うまく機能せず、同年の内に解体していた。 したがって、事件がはじまった時点では存在していなかったのだが、人民革命軍は、結局は中国共産党の組織であり、数が多いにもかかわらず、朝鮮人隊員は排斥、疎外される傾向にあったのである。

 

1935年(昭和10年)に東北人民革命軍第一軍師長兼参謀長の李紅光は戦死するが李紅支隊は通化事件などで活躍する。

 

間島の金日成

1935年(昭和10年)、中国共産党中央は、コミンテルンの人民戦線統一戦略に基づき、東北人民革命軍を、あらゆる反日抗満武装団との合作をめざし再編する方針を打ち出した。したがって、共産主義には属さない武装団体も、抗日の一点で一致すれば、共闘し、吸収することをめざすこととなった

以下略

 

韓国では「上海臨時政府」が正当な国家だと言ってますので、韓国は「匪賊国家」ということになりますね。 

だから「反日」のためならどんな「嘘」でも平気で作り上げることをするわけですね。

 

戦前の日本人って、よく観察していますね。すべて見抜いていますよ。

       ⇓

神戸大学新聞文庫  1930年7月31日 神戸新聞

天人共に憎む『匪軍』とは? 共産主義を悪用する暴徒の集団に過ぎぬ】

f:id:chaonyanko2:20190607183237j:plain

大震災の如く長沙を荒らした共産土匪は匪国支那に現れた新様式の土匪にすぎない、(中略)共産主義の宣伝を行い 共産主義の各種スローガンを鼓吹していた、しかしその宣伝と並行して行われるところを見ると いわゆる士豪列紳の邸宅はもとより官公署等の大建物は只無意味に焼き払われ破壊され殆ど一物も余さず椋奪し去るのである

 

蒋介石の正規軍でも往年の長江進出に際して兵士に与えたるスローガンが『漢口』にあらずして『漢口の酒と女と金言い換えれば漢口における略奪暴行であったのであるから匪を看板に掲げた彼等が各地にどんなお題目を唱えたところで掠奪暴行が緩和されるわけがない…以下略

 

 

国民党軍も共産党軍も「匪賊」を内包しているため、隊員は「金と酒と女」がお目当てだったようですね。

   ⇓

神戸大学新聞文庫 1932.5.25 京城日報 

上海に於ける学生義勇軍の話 餌食となった女義勇軍

f:id:chaonyanko2:20190607185441j:plain

>そのために共産党の活動分子が学生に化け、或いは軍人となって盛んに煽動、宣伝を行い、血の気の多い学生などを駆り立てて盲目滅法の戦いをやらせた、

彼等はまず我が陸戦隊の守備線たるコウ北戦線をやぶって租界内に突入し、便衣隊の活躍と呼応して上海全市を大混乱に陥らしめ、然る後に十九路軍に兵変をおこして上海を共産党の手に握る、という厖大な計画だったのだ。 

燃しそれは明らかに失敗した。 学生軍の大部分を殺したばかりでなく共産党の活動分子も多数たおれたのである。

 

学生義勇軍の外に市民連合義勇軍というのが組織されて二月八日には後方部隊として出動し、又市民の組織した大刀隊という一隊も前線に出動した、燃し義勇軍として最も人目を惹いたものは北平馮傭大学の女学生義勇軍であった彼女等は男学生義勇軍と共に二月十三日に上海についた

 

胸と腰部とが豊満に膨れ上った軍服姿なるものはおよそ、珍妙なものであった。

燃し彼女等は剣も吊っているし銃を取って射撃もしたし、或は手榴弾の投げ方も練習した。

戦線では土嚢、塹壕の構築や衛生隊、輸送隊などに加わって真剣に活躍した。

が燃し結局は女である。飢えた狼の如き支那兵には肉の軟い子鬼以上に御馳走だったに違いない所謂前線慰問として上海から出掛て来たお転婆女学生と共に支那兵の餌食となる以外にあんまり役には立っていない。

 

支那軍の退却した後の曁南大学中央の塹壕には引裂かれた絹地のスカートが散らかっていた。 大場鎮には下半身裸のままの若い女の死体が転がっていた 江湾鎮の塹壕内では腰が立たずに逃げ遅れた女学生が日本兵の姿を見て『救けて下さい』と手を合わせて拝んだ。

 斯くして支那塹壕には血の亢奮とがカクテルのように掻きまぜられていたのだ

 

国民党軍も共産党軍も…匪賊そのまんまではないでしょうか。

もしかして「従軍慰安婦」って、共産党軍の女子学生のことなんでしょうか?

 

結局、中国共産党大韓民国臨時政府(韓国)も北朝鮮コミンテルンの意向でパルチザン(日本側では匪賊と称する)だったということなんでしょうか。

それにしても、「民族自決」だといいながら、同じ民族から搾取し、命を奪っているのですから…なんとも言葉になりませんね。

「民族自血」と変えたらどうでしょうか。

 

私は、つくづく日本人に生まれて良かったと思います。

 

最後までお読みくださいまして有難うございます。

誤字、脱字がございましたらご容赦くださいませ。

リンクフリーの記事です。皆様のお役に立てたら幸いです。

中国の殺し屋工作員:周恩来を礼賛する異常な人々

今日もお立ち寄り有難うございます。

 

今日は6月4日「天安門事件」があった日ですね。

中国共産党では、火消しに躍起になっておりますが…。

さすがに、戦後にあった事件ですので「日本軍の大虐殺」と嘘をつけませんね。

 

 

以下のような記事を読むと、「友好」に踊る人たち(既得権受益者)の売国ぶりに気分が悪くなります。

 

京都新聞 2019.5.21

f:id:chaonyanko2:20190604115735j:plain

中国の周恩来元首相が詠んだ詩句「雨中嵐山」を刻んだ詩碑の建立40周年祝う献花式が20日京都市右京区嵐山公園であった。詩句が詠まれてちょうど100周年にもあたり、日中の関係者150人が、元首相の功績をたたえ、日中友好が続くことを願って花を手向けた。

 

 元首相は、1917年9月から約1年7カ月、日本に留学。「雨中二次遊嵐山」(雨の中を再び嵐山で遊ぶ)で始まる詩句は、帰国直前に詠んだ。詩句は、日中国交正常化締結の翌年79年に建立された。

 

 献花式は日中国際文化交流協会が主催し、華僑や留学生らが参列。献花式などの記念事業に関わったワタキューセイモアの安道光二会長が「中国発展の礎と日中友好の懸け橋を作られた。今も多くの恩恵を受けており、感謝する」とあいさつした。

 同協会の松田和典会長は「詩碑の存在は、中国では有名だが、日本では知られていない。多くの人に訪れてほしい」と話していた。

 

日中国交正常化」は、30年に渡って日本人の血と汗の結晶が中国へODA(対中政府開発援助」として有償資金協力(円借款):3兆3164億円無償資金協力:1572億円技術協力:1817億円総額3兆円以上が中国共産党の軍事費や党員の懐に入って行きました。

 

その他にも、環境、衛生、教育、農業、工業、貧困対策、鉄道、通信、などのインフラ整備等々の年間3000万ドルの援助も行ってきました(※数字は米華字メディア2017.4.26を参照)。

 

日本人の血と汗の結晶が…中国の軍備拡大を助長させ、尖閣諸島への不法侵入を増長させ、さらに、反日教育の拡大を増長させてきて、日本人の生命と資産を脅かすことになってきました。

 

日本人の血税を思い存分使って、日本人の生命と財産を脅かす「日中国交正常化」を喜ぶ「ワタキューセイモア」って何?と思い、Wikipediaで調べてみました。

   ⇓

「ワタキューセイモア」Wikipediaより

f:id:chaonyanko2:20190604124158p:plain

(※「日清医療食品」は「日清食品」とは関係がない)

 

f:id:chaonyanko2:20190604124400p:plain

>主要株主 伊藤忠商事 25%

 

あらま! 中国共産党と一緒に「デサント」を乗っ取った伊藤忠商事じゃございませんか!

国賊「伊藤忠商事」に中国へ売り飛ばされた「デサント」 - 姥桜

 

本当に伊藤忠商事国賊としか言いようがないですね!

ここで伊藤忠商事売国ぶりをもっと書きたいところですが、今日は周恩来のことについて書きたいと思います。

 

日本の高齢の方々には概ね周恩来の評判はよろしいかと思いますが…周こそ日本を貶めた反日共産党員は廖承志並ではないでしょうか。

 

早坂茂三の「田中角栄」回想録】早坂茂三

f:id:chaonyanko2:20190604125813j:plain

> 田中は私に毛沢東を評して、「彼は詩人であり、哲学者であり教師だ」といったことがある。「本当の政治家は周恩来だ。世界中で周恩来に匹敵する者はいない。政治家として、行政官として、周恩来は見事なものだ」—こういって田中は激賞した。

 47年9月29日、正常化を終えて、北京から上海に飛んだ田中首相一行に周恩来は同行した。

(中略)

周恩来は田中、張一行から百メートルばかり離れ、ゆっくり歩きながら、泥壁づくりの小さな農村工場に立ち寄った。大勢の婦人労働者が周総理を取り巻き、抱きつき、涙を流し、大声で訴える姿を、私は近い距離から観察した。私は中国語ができないから話の中身は、もちろん、わからない。

 

 しかし、汚れた作業衣の婦人、一人ひとりと手を握り、肩を抱き、ポケットからハンカチを取り出して、何人もの涙を拭いてやり、力強い口調でじゅんじゅんと話していた周恩来の姿は、私の脳裡に今も鮮烈に焼き付いている。

 離れない人たちの輪からやっと出て、田中一行に追いつこうとする周恩来に沿道から拍手の渦が巻く。

(中略)

 ニクソンの右腕として活躍したキッシンジャーは、米中秘密交渉で接した周恩来を「世界でもっとも傑出した三人の政治指導者の一人」と述べているし、ブルジネフを軽く見ていたニクソンも、その回想録で周恩来を最大級の表現でほめちぎっている。 卓越した政治家が相手を見る目は変わらない。

 その周恩来と中国について、田中は次のように語っている。

 

首脳会談は人間と人間の勝負だ

 

 私は世界の多くの指導者に会って話したけれども、周恩来という人は、なかでもずば抜けた人物であったね。 これはまさに傑物だ。 風雪に鍛えぬかれた百戦錬磨の政治家、卓越した行政官でもあった。 行政官といっても、机に向かっているだけの行政官じゃない。 なにしろ、きみ、革命運動や幾多の戦争を指導して、旧国民党との困難な折衝の矢面にも立ってきたんだ。 以下略

 

大勢の婦人労働者が周総理を取り巻き…

この場面は、北朝鮮がよく使う手ですよね。

      ⇓

f:id:chaonyanko2:20190604132750p:plain

ヤラセ、演技です! 田中角栄早坂茂三さん、騙されましたね。

毛沢東の「大躍進政策」で何千万人(※7600万人という説もある)(※子供を交換して人肉食いも横行した)という中国人が餓死した政策、「文化大革命」でもさらに多くの死傷者を出し「人肉宴席」まで横行し、日本でも「学生運動共産主義革命)」で紅衛兵を真似た「造反有理」で凄惨な暴動が起きました。

田中角栄はじめ、周りの人たちもどうしてこの事実に気が付かなかったのでしょうか?

 

最近、田中角栄を礼賛する本なども出たりしていますが、私には田中角栄は「無知」で「功名心」が強く、「拝金主義者」だということしか思いつきません。

良いところも沢山あったのかも知れませんが、田中政治は中国共産党みたいに汚職が絶えませんでした。日本全国に無駄な箱物が沢山出来ました。

 

【蠢く!中国「対日特務工作」㊙ファイル】袁翔鳴著

f:id:chaonyanko2:20190604133402j:plain

> 日中国交正常化交渉について、回顧する文章や本が多く発表されたが、田中と周恩来を持ち上げ、その決断を賛美するものばかりで、味噌汁やアンパンのことを含めて、中国による巧妙な仕掛けについて触れるものはほとんどない

 

 「『日中国交正常化』を実現させたことで、関係者はその後、『日中友好の功労者』として中国に持ち上げられ、様々な便宜を図られ、ほとんどと言ってよいほど中国に取り込まれていった。『いまさら中国の悪口を言っても始まらない。真相を全部明らかにすると自己否定につながりかねない』という気持ちがあったはずだ」

 ある外交関係者は、こう分析する。

 

 「井戸を掘った人」「中国の古い友人」「進歩的日本人」「名誉教授、名誉会長…」「永遠の友人」などなど…くすぐったいほど持ち上げられて、自分が騙されて利用されているなんて露ほども知らず…

彼らだけの話では済まされず…

彼らのせいで、日本人はどれだけ中国に搾取されたか…

いまでも搾取され続けていますが。

 

さて、次は周恩来の履歴を紹介します。

【マオ 誰も知らなかった毛沢東ユン・チアン&ジョン・ハリディ著

f:id:chaonyanko2:20190604135801j:plain

> 周恩来が初めて共産主義に出会ったのは日本だった。 1917年、ちょうどボルシェビキ革命が起こった時期で、周恩来は19歳の学生だった。その後、周恩来はヨーロッパ留学中に共産党に加わる決意を固め、1921年中国共産党フランス支部に入党した。

 周恩来は強烈に信奉し、その献身ぶりは禁欲主義として現れた。

 (中略)

 粘り強く、不撓不屈で、冷酷なまで冷静な周恩来は、優秀な行政官であり腕の立つオルグであった。

 モスクワは周恩来に目をつけ、中国共産党軍の創設というきわめて重要な任務を与えた。

 1924年周恩来は中国へ帰国を命じられ、国民党の士官養成機関としてソ連が設立した黄埔軍官学校の政治部主任となった。

 周恩来に与えられた秘密任務は、国民革命軍の上層部に共産党スパイを潜入させて、時期が来たら国民革命軍の一部を乗っ取れるよう布石を打っておくことだった。

 蒋介石による国共分裂のあと、1927年8月の南昌蜂起という形で、周恩来はこの任務を全うした。

(中略)

 その後、周恩来は上海へ行き、1928年初頭から党務を担当するようになった。

 周恩来は地下活動が天才的にうまかった、と、当時の仲間が証言している。

 その夏、周恩来ソ連へ行き、モスクワ郊外で開かれた中国共産党第六回全国代表大会の前にスターリンと面会している。

 周恩来はこの会議の中心的存在で、少なくとも三つの重要報告をおこない、書記の役割もはたした。 周恩来の担当領域は広範にわたり、モスクワの指導の下で中国版KGBを創設し、暗殺部隊の責任者までつとめた。が、周恩来の最大の任務は紅軍の組織化だった。

(中略)

 周恩来が備えていた政治局員としての理想的資質の中に、厳格に規律を守る姿勢、モスクワに対する揺るぎない服従、そして奴隷的な屈従精神があった。

 周恩来は、上からどれほど叩かれても甘んじてそれを受けた。

(中略)

モスクワから来たドイツ人特使の一人が周恩来の中にあるマゾヒズムの傾向を見抜いたのか、「周恩来同士に関しては、もちろんお尻をペンペンしてやる必要があるでしょう。とはいえ、彼を追放するつもりはありません。われわれは彼を改造しなくてはならない…彼が自分の誤りを正せるかどうか、見てみましょう」と発言した。

周恩来は、ただじっと座って発言を聞いていた。

(中略)

 党に対する忠実さと疑う余地のない有能さを評価して、モスクワは周恩来を1928年から党の指導的立場に抜擢した。こうして、朱毛紅軍の紛争をさばく役割が周恩来に回ってきた。

(中略)

 撤退準備の中には、脱出組のリストに載った人間をしらみつぶしに審査する作業があり、これは周恩来が担当した。 信頼できないと判定された人物は処刑された。

 処刑者は何千人にものぼった。 紅軍軍事学校の教員は大多数が処刑された。 教員は紅軍の捕虜となって根拠地に連れてこられた元国民党将校が多かったからだ。

処刑は立ち入り禁止にした山奥の谷間に巨大な穴を掘って、そこでおこなわれた。

犠牲者たちは短剣でめった切りにされ、穴の中に蹴落とされた。 穴が満杯になると、残った者たちが自分用の穴を掘らされ、それからめった切りにされて殺された。

生きたまま埋められた者もいた。

(中略)

 1927年の国共分裂以来初めて中央書記処のメンバー9人全員がそろった会議で、5人が毛沢東不支持に回ったのである。 反対派の先鋒は王明だった。 新四軍の責任者項英も、昔から反毛の立場を明確にしていた。 長征で毛沢東からひどい妨害を受けた張国燾は、毛沢東を憎悪していた。

 周恩来と博古も王明の側についた。

 周恩来は積極的に日本と戦う考えに賛成だったので、よろこんで大勢側についたのである。

 毛沢東は少数派に転落した。

 (中略)

 当時重慶にいた林彪は、6月16日、ソ連大使パニュシュキンとの会談会場に周恩来より早く到着し、周恩来が何の手も打っていないこと、「命令」は「延安」から来たこと、をパニュシュキンに告げた。林彪より遅れてやってきた周恩来は、3ヵ月ばかり前に蒋介石に手紙を書いたが返事がなかった、と主張しはじめた。

 このとき林彪は「うなだれて座っていた」と、パニュシュキンはモスクワに報告している。

 周恩来がうそを言っているのは明らかだった。 事実、周恩来林彪は6月7日に蒋介石と会ったばかりだったのである。 そのとき、蒋介石はたいへん友好的な態度で応じたが、周恩来は新疆で囚われている同志のたちの話題はいっさい持ち出さなかった。

(中略)

おびただしい数の中国人が処刑された一方で、外国人で処刑されたことがわかっているのはわずかに二人―イタリア人アントニオ・リーヴァと、日本人山口隆一―だけである。

(中略)

二人は他の外国人数人とともに、国慶節の何日か前に逮捕された。それから10ヵ月後の1951年8月17日、アントニオ・リーヴァと山口隆一はジープに立たされて北京市中心部を引き回され、天橋の近くで公開処刑された。翌日の『人民日報』は「アメリカのスパイ、武装反乱を計画」と派手な見出しを打ち、暗殺計画は前アメリカ大使館付武官ディヴィッド・バレッド大佐の命令だった、と報じた。

 

 誰あろう外国人が、選りに選って国慶節のような最高レベルの警備が敷かれる日に、何十万という組織され熱狂した中国人大群衆の直中で、しかも一万人の警官と一万人の兵隊の警備をかいくぐって毛沢東暗殺を企てるとは、いささか考えにくい話である。事実、首謀者とされたバレット大佐は何ヵ月も前に中国を離れている。

 20年後、周恩来はバレットに疑いをかぶせたことを曖昧な言葉で謝罪し、改めて中国に招待した。 告発が捏造だったことを間接的に認めたのである。 以下略

 

確かに、周恩来は優秀で忠実な行政官であったようですね。

ただし、スターリン毛沢東服従していたのですから、「優秀な政治家」ではありませんね。

ニクソンはじめ、田中角栄に至るまで、周恩来の行き届いたおもてなしに感激するあまりに、何かをはき違えたように思います。

 

また、中国や外国人要人の中に、日本に留学していた、または日本で過ごしていた経験がある人物を「知日派」と喜んでいますが、これは「親日派」とは違います。

工作員は相手を騙すのが目的ですで、表向き愛想もいいでしょう。

嘘も平気でつきます。

 

しかし、バレット氏に誤ったとしても、無残にも処刑をされたイタリア人と山口隆一氏への謝罪がありませんね。

こういう人物が「優秀」で素晴らしい人物といえるのでしょうか?

 

それにしても、毛沢東の残忍さは今では誰も知るところですが、その毛沢東を支え、協力してきた周恩来も同罪だということに、誰も気がつかないのでしょうか? 

 

「穴を掘らせて殺して埋めた」「生き埋めにした」という話などは、「万人杭」ですよね。

これらも、なぜか「撫順炭鉱で日本軍が中国人労働者を生き埋めにした」ということに話がすり替えられていますよね。

中共は自分たちがしたことを、すべて「日本軍」のせいにしていますね。

日本共産党も『赤旗中国共産党の主張に色を添えてますが…

 

日本共産党 しんぶん赤旗 2004年12月9日

f:id:chaonyanko2:20190604165007p:plain

 「住民を皆殺しにし遺体をガソリンをまいて焼き殺した」と主張していますが、日本共産党員は現場を見たのでしょうか?

資源に乏しい日本軍がガソリンを人殺しのために使うのでしょうか?

あまりにも荒唐無稽の主張に、呆れるとしか言いようがありません。

日本共産党って言論テロをしていますね。 

こんな酷い政党に票を入れる人ってどんな人でしょうか?

 

昔の日本では「嘘をつくと閻魔様に舌を抜かれる」「嘘ついたら針千本飲ます」「嘘は泥棒の始まり」と、子供の頃から躾けられたものですが…

共産主義では「嘘」は「善」なのでしょうか?

 

因みに、毛沢東は「反日」ではありませんが、周恩来は「反日」です。

なぜなら、周恩来スターリンの「反日」を支持し、「排日政策」を実行していたのですから。

 

それから、「通化事件」は、ソ連が侵攻した後に、中国共産党と延安にいた日本共産党が入ってきて、凄惨な日本人大虐殺が始まりました。

通化事件 - Wikipedia

 

その時、毛沢東とともに周恩来も虐殺を支持していたわけです。

しかもその数年後、シベリア抑留者約1000人の日本兵中国共産党に引き渡され、そこで凄惨な「改造(洗脳)教育」が行われますが、指図したのは周恩来です。

中帰連」のことは別の機会に記事にしたいと思います。

 

最後までお読みくださいまして有難うございます。

誤字、脱字がございましたらご容赦くださいませ。

リンクフリーの記事です。皆様のお役に立てれば幸いです。 

 

自然破壊のメガソーラーの設置に反対を!

今日もお立ち寄りくださいまして有難うございます。

 

もっと早くに記事にするつもりが、つい、今頃になってしまいました。

今日は、太古の時代から自然の宝庫である森を大切にしてきた日本に於いてあるまじき行為をしていることについて書きたいと思います。

 

 

chang org 「緊急!東京ドーム32個分の広さ、30万本以上の木を大量伐採するメガソーラー計画が!南房総・鴨川の豊かな自然と美しい景観を守るために、皆さんの声を届けてください!

f:id:chaonyanko2:20190601122808p:plain

>私たちは、暴走半島の美しい自然から、日々恩恵を受けて暮らしています。

緑豊かな山々、変化に富んだ海岸線、澄んだ海は、私たち鴨川市民の心の故郷であり、当市を訪れるたくさんの観光客にとってもかけがえのない宝、つまり観光業の財産でもあります。

 

 この大切な自然が破壊されようとしています。鴨川市田原地区の広大な山林を伐採して、太陽光パネル50万枚(概算)を敷き詰める、日本最大級のメガソーラーが作られようとしています。(伐採面積は東京ディズニーランドの、なんと3倍!)

 

 計画予定地は、千葉県により「山地災害危険地区」に指定されている急峻な山林であり、このような場所が開発されれば、土砂災害、洪水誘発の恐れもあり、生態系の破壊や地域の農業、漁業に大きなダメージを与えると懸念されます。

 

 また、メガソーラーは地域の産業になりえず、しかも、この発電所で作られる電気が直接、鴨川市民が使うものではありませんし、災害時の緊急の電源にもならないということです。

 

 メガソーラー計画地のすぐ北側に隣接する国有林には、千葉県の絶滅危惧種(最悪重要保護生物)にも指定されている「ヒメコマツ」が2個体生育しています。

千葉県でも房総丘陵の限られた地域でしか生育が確認されておらず、周辺環境の変化によってヒメコマツの生存に及ぼす影響や、計画地内にヒメコマツがある可能性も否定できません。

 他にも事業者が実施した環境調査でも、計画地内で「希少動物」の生息が確認されるなど、貴重な自然環境が残されている数少ない場所だと言えます。

 

 山林は公益性をもっており、土砂災害の防止、水源のかん養、良好な景観の形成、文化の伝承等、私たちが安全で快適な生活を送るために欠すことのできない多くの多面的機能は、地権者や人間だけのものではありません。

 

 もしこの計画を許してしまえば、鴨川だけでなく、他地域の山林でも次々と作られることにつながるでしょう。

 房総半島の豊かな自然と美しい景観を後世へと引き継ぐために、どうか力を貸してください。

 

鴨川市の100年後を見据えた英断を望み、私たちは以下のことを要望します。

・市民の不安や概念を解消しない限り、開発計画に同意しないこと。

・今回の計画地はメガソーラー建設に不適切な土地であるので、業者、千葉県と国に中止を要望すること

 

◆鴨川の山と川と海を守る会

◆鴨川メガソーラー建設の中止を求める会

ホームページ 

フェイスブック 

   (⇑のアドレスは、上記のリンクをクリックしていただければ入れます)

 

 

このメガソーラー設置で各地で訴訟が起きています。

f:id:chaonyanko2:20190601130813p:plain

f:id:chaonyanko2:20190601130836p:plain

 

私も、何年か前にテレビで茨城?の農地に巨大なメガソーラーを設置して、これからも増やしていくような番組を観ました。

中国では、全土にメガソーラー設置をしていく予定で、茨城に設置されたソーラーも安価な中国製だということでした。

 

しかし、作物に太陽が当たるのか? ソーラーを支える柱でトラクター等の運転に邪魔ではないか? 大量の設置でメンテナンス費用が嵩むし、何年か後の廃棄の時の費用はどのくらいかかるのか?…といった疑問が残った番組でした。

 

中国製のソーラーですと、メンテナンスをするときに、その会社が無くなっていたらどうするのでしょうか?誰が保障してくれるのでしょうか?

そういった不安を感じていましたが…

 

案の定、各地で「訴訟」問題が勃発してきました。

 

そんな時期に、「日本最大」のメガソーラーを、風光明媚な鴨川市に設置計画があることをchange orgで知りました。

 

地権者からしたら、「お金」を生み出すには、自然はいらない…ということでしょうか?

こういった場合は、尖閣諸島の時ではありませんが、国や県、市が一旦買い上げることも考えて欲しいと思います。

 

さて、日本が最古の文明を誇ってきたのは、誰もが知るところではありますが、なぜだと思いますか?

世界の文明は滅びても、日本だけは自然豊かな歴史と文明を維持しています。

それは、日本人が「自然」を大切にして森の神、海の神、山の神…というように、尊び大切にしてきたからです。

 

戦前の日本は、はげ山だった朝鮮半島に「植林事業」をしました。

インドも日本人が植林事業を進めました。

満州(現・中華人民共和国東北部)にも「植林運動」といって、満州に緑を植え続けました。

 

その理由は…

神戸大学新聞文庫 満州日報 1935.4.14

f:id:chaonyanko2:20190601132620j:plain

>今や全満を通じて緑化運動が提唱され、都鄙至る所に植樹熱の旺盛になったことは、各種の意味に於いて喜ぶべき風潮である。 元来この運動たる自然美に富む我国に於てすら近時非情な熱度で唱道宣布ざれて居る。    国土の美観は常に人為的物質文化の力のみでなく、土地の自然力を培養して、水草の繁茂、山野の和潤を増さしむ所に最も普通的効用がある。 就中満州の如きは久しくこの点が閉却されて居た為に、国土の発達に重要な住民の愛郷心を衰退させたといって差支えない。 一般に指摘される気候風土の問題にしても、その根本理由は地力地形の如何にあらずして、地力を保存し、地形を潤色し、それに依って寒暖風雨を調整し得る天然資源の維持されなかった余弊が多い。

(中略)

曾て密林を誇った樺太の南洋も、右の用途の為めに短日月間に殆ど伐尽され、今や一転して欠を東部満州に補足せんとして居る。 之は文明が促す工業の発達から見て已むなしい傾向だが、併しその林政の合理的手段に依って、林産の永続性を講じなければ、遂に或は東部満州をも併せて北海道や樺太の覆轍を踏ますや測られない。 殊に満州の気候風土は、他の温帯地方の如く樹草の生育率が旺盛でない。 そこに必要な林産の効用と植樹との調節がある。

(中略)

併し革新期に動もすれば陥り易い傾向は、旧物に対する極端な破壊にあって、前述林産の利用熱がその軌を逸した場合の余弊を警戒せねばならぬように、一国歴史の資料たる名所旧蹟の保存は非常に必要だ。 国家の威厳は目前の富度利便のみでは維持されない。 必ずやその威厳の由来した史的地域や遺跡がなければならなぬ この意味に於いて建国以来の政府当事者は、満州民族既往の旧遺跡を尊重し、日本はまた力めてこの方針に対して形而上下の支援を与えんとして居る。 以下略

 

   ⇑

戦前の日本人は自然の恵みが人間の心と体を育ててきたことを感謝し、維持してきたんだなと思った次第です。

現代人は、先祖が守ってきた「命の恵(自然)と知恵」を忘れてしまっているように思います。

 

さて、皆さんはアメリカや中国が水不足で大変なことを知っていますか?

アメリカリフォルニア州は山火事が多いですよね。

私の娘も住んでいるのですが…とにかく水不足なんですよ。

 

日本が満州の大地(現、中華人民共和国東北部)に植えた植林は、日本が去った後に伐採され…次々と自然が破壊されていった結果…砂漠化してしまったのです。

上海の地盤沈下は勿論のこと、北京のすぐそこまで砂漠が近づいてきているのです。

ですから、中国は日本の北海道などの水資源を買い漁っているのです。

 

中国人には、「自然破壊」が「人間破壊」に繋がっているということが理解できていないように思います。

今、日本の関東にでも「黄砂」が飛んでくるようになりましたね。黄砂にのってPM2.5まで飛んでくるようになりました。

「拝金主義」が蔓延すると、地域だけではなく地球全体に影響を及ぼすことになります。

 

以下に紹介する著書は2006年に発行されたものです。

  ⇓

【大地の咆哮 元上海総領事が見た中国】杉本信行著」

f:id:chaonyanko2:20190601141746j:plain

>第九章―—深刻な水不足問題

★世界でも有数の「貧水国」

 本書の冒頭で、1974年、初めて訪れた昼間の北京の印象を「真っ黄色」と記した。

緑が乏しく、地面に草が生えていないために、地表は自転車や自動車が走ると砂埃がわんわんと舞い上がる黄色の大地を眺めて、「ここは日本と違って水がない国なのだな」と直感した。

 

 しかし、現実はそれ以上に深刻であった。

 それから9年後の83年、一等書記官として北京大使館に赴任したときも、それなりに北京周辺を視察したとはいえ、行動範囲は限られていた。

 

 さらにそれから15年後、98年から2度目の北京勤務の私は、経済協力業務も担当し、とくに貧しい地帯から要請が上がってくる「草の根無償資金協力」のプロジェクト発掘に時間を割いた。 その過程で北京に比較的近い河北省や山西省走り回ってみて、この国がひどい水不足に陥っている現実を目の当たりにした。

 

 たとえば、北京から5、60キロも離れていない河北省の寂れた県に小学校の建設を要請されので行ってみると、途中の道の脇にある本来川であるところにほとんど水が流れていない。 周辺の年間降水量から判断しても、これではせいぜいトウモロコシぐらいしか植えられない。

 

 山西省大同市近くで植林活動を行っているNGO「緑の地球ネットワーク」から、彼らが活動している近くの学校が地震で倒壊したので直してほしいと要請を受けた。 さっそ見に行くと、そこにもまったく水がなかった。 一本の木も生えていない砂漠のような山間に、その村はひっそりと佇んでいた。

 

 もっとも衝撃だったのは、これも河北省で、「草の根無償資金協力」の要請を受けて調査に出かけた山奥の村。 ランドクルーザーでやっとたどり着いた村の地面は土がなくて岩だった。 岩の上に多少雑木、灌木が生えていた。

(中略)

 ここも北京から百キロ足らずの場所だが、食料生産用の水が足らないのではなく、飲み水さえままらない状態なのである。 このような村の現金収入はほとんど若者の出稼ぎ労働に頼っている。 村に残っているのはお年寄りばかりであった。

(中略)

f:id:chaonyanko2:20190601144342j:plain

>2030年~50年には中国の人口は16億人に達すると予想されている。 仮に水資源保有量が増えないとすると、一人当たりの平均保有量が現在の4分の3の1755立方メートルに減少し、水不足がさらに厳しくなるのは確実といわれる。

 (中略)

★河床の上昇が続く黄河の危うさ

 そして近年、世界の憂慮を集めているのが、黄河の断流現象が最初に発生したのは72年。 その主な原因は、上流に建設された3100余りのダムからの過剰取水である。 ダムの水を止め、水を乱用し、無駄に蒸発させてしまうため、自然な貫流システムが働かないのだ。

(中略)

 歴史的記述によると、黄河の中上流には豊かな森林と草原が存在していた。 ところが唐時代以降森林破壊が続き、現在では黄河の中上流の青海、甘粛、寧夏、山西各省・自治区の森林被覆面積はそれぞれ、0.4%、4.3%、1.5%、8.1%にしかすぎない。

 

 このように、ほとんど森林のない土地に大河が流れているため、流域面積の半分の土地で水土流出が起こっている。 毎年16億トンの土砂が黄河によって下流に押し流されており、この土砂を幅、高さ1メートルに積み上げれば、地球を27周する計算になる。

(中略)

それを受けて、日本が特別円借款で、鉄板を土砂深く打ち込むパイピング防止計画を示したが、経費面や負担の影響が読めないことから一地域に限られた。

(中略)

地下水の過剰取水による地盤沈下

 中国農業大学の報告によると、中国の穀物の約40%を生産している華北平原のほぼ全域でこの5年間、地下水位が年平均1.5メートル(03年10月にレスター・ブラウンが発表したところによると3メートル)も低下している。 

 

 また、沿海部の大都市では、地下水の乱開発で地盤が沈下し、海水が進入しているところも出ている。 北京市でも地盤沈下が起こり始めており、最も激しいところで、0.6メートル、天津市では2.6メートルにも達している。

 04年4月20日、全青連が開催した「水フォーラム」で、北京の水利局から衝撃的な数字が数多く発表された。

 99年から03年まで、北京は5年連続の干魃で、年間の平均降水量は428ミリと暦年平均の72%でしかない。 このため、北京の水瓶である官庁ダム、密雲ダムも水位が下がり続けているという。

以下略

 

中国の水不足は、森林破壊に続き工業化により更に水不足と汚染が重なっていることです。

都市化とともに、富裕層はシャワーや水洗トイレを使うようになり、さらに水が不足してきています。

 

日本の「中国人留学生受け入れ30万人」(中曽根内閣?の時だったと記憶していますが、うろ覚えですみません<m(__)m>)という政策も、もしかして、水不足の解消のため(口減らし)?なんて疑たくなります。

日本としても、過剰な大学の維持や、古くなり日本人が住まなくなったURの団地の空き部屋対策などもあって…中国人移民を増やそうとしているのでは?と疑いたくなります。

 

『大地の咆哮』にも書いてあったように、「森林破壊」は干ばつを招き、更に水不足を招くのです。

それが理解できない中国人だから、どんなに日本人が頑張って木を植えても…有難みもないんですね。

中国政府としては、「反日教育」の方が大切なようです。

 

カナダでも、香港返還の時に沢山の中国人を受け入れたのですが、やはり中国人が森林破をしはじめて問題になっていました。

 

今、100万人ほどの中国人が日本に住んでいますが、そのうち、日本もカナダのように…それ以上に森林破壊が進むかもしれませんね。

 

そもそも、テレビが報道していたように「中国全土にソーラーを普及させる」は、ハッタリとしか思えません。

だって、中国の富裕層はほんの一握りで、現在中国の人口が14億人だとすると、あとの13億人程は貧しくてソーラーを設置することはできません。

中国の“格差”は、世界一ではないでしょうか。社会主義の国なのに…不思議ですよね。

 

森林破壊、自然破壊は、人間を滅ぼすことになることを肝に銘じてほしいと思います。今こそ、「日本の先人に学べ!」です。

皆で知恵を絞って、美しい日本、平和な日本を維持していきたいものだと思います。

 

最後までお付き合いくださいまして有難うございます。

誤字、脱字がございましたらご容赦くださいませ。

リンクフリーの記事です。皆様のお役に立てましたら幸いです。

 

ロシアがどの口で丸山氏を批判するのか!

今日もお立ち寄り有難うございます。

 

朝日新聞 2019.5.17

f:id:chaonyanko2:20190530142746p:plain

日本維新の会片山虎之助共同代表は17日、ロシア大使館でガルージン駐日大使と会談し、丸山穂高衆議院(維新が除名)が北方領土返還に関連して戦争に言及した問題について陳謝した。ガルージン氏は「戦争という言葉、ロシアの混乱を望むようなことは非常に不快」と述べたという。 以下略

 

ちょっと待ってくださいよ!

日本が敗戦濃い時期に、突如、「日ソ中立(不戦)条約」を破棄して満州樺太、北海道まで軍事進攻してきたのは、あなた達ロシア(旧ソ連)ではありませんか!

どの口で「不快」だなんて言えたのでしょうか!

 

昭和毎日 昭和のニュース

ソ連が対日宣戦布告 1945年8月8日】

f:id:chaonyanko2:20190530144617j:plain

ソ連が日本に宣戦を布告、満州(※現中国東北部)や朝鮮などに進撃した。

日本とソ連は1941年4月、中立条約に調印して太平洋戦争(日本側:大東亜戦争)ぼっ発以降も中立関係を維持した。

しかし、45年2月のヤルタ会談で、ソ連は対日参戦することをアメリカとイギリスに確約、条約を一方的に破棄したソ連の参戦により満州の日本開拓民約8万3000人が死亡、数千の子供が「孤児」として大陸に残された。

 

【八月十五日からの戦争 日本人が知らない満州国の悲劇「通化事件」】

加藤康男

f:id:chaonyanko2:20190530143723p:plain

関東軍総司令部の時計が、8月9日午前1時を少し回った頃である。

 ソ連軍は突如、対日宣戦を決定、奇襲攻撃が開始された。夜間の非情当直に当たっていた作戦班や情報班の幕僚たちの電話が一斉に鳴った。

 

「牡丹江の第一報でありますッ。午前1時、牡丹江はソ連空爆を受けつつあり

「東寧、綏芬河正面の敵機甲部隊は攻撃を開始せり」

 

 非番だった作戦班長(第一課)の草地貞吾(大佐・陸士39期)の自宅官舎にも、当直から直ちに通報が届いた。

「いよいよ来たか。第一報ではまだ分らんが、おそらく敵は全面侵攻を開始したのではあるまいか」

(中略)

 いっとき最強を誇った関東軍も、いまは見る影もない。案の定、8月9日のソ連の参戦直後、満州北東部入植地域では、目を覆うばかりの悲惨な事件が次々発生した。

 代表的な例としては、麻山事件(8月12日、400名余が集団自決に追い込まれた)や葛根廟事件(8月14日、ソ連軍戦車14台が約1,100名を虐殺)などあったが、この段階で総司令部に詳しい情報はまだ届いていない。

いずれも退却する関東軍のあとを追う途上、ソ連軍の襲撃に遭遇して死亡したもので、ただ悲惨の二文字に尽きる。…

 

ソ連満州に侵攻した夏】半藤一利

f:id:chaonyanko2:20190530151227p:plain

>8月14日の昼近くである。東京で、天皇が「国民の生命を助けたい」と23人の男を前に降伏の決断を下したとき、ほとんど時を同じくしている。

歴史とはなんとも無残なことをする。

 

 飢えと疲労で何日も歩き続けてきた人びとは、中型戦車14輌に蹴散らされ、轢き潰された。 最後尾の興安小学校の児童たちが戦車の轟音を最初に聞いたときには、もう殺戮がはじまっていたのである。

遮蔽物がなにもない草原は最高の射場と化した。向かいの丘からそれを眺めていたソ連兵士は、

まるでマッチの軸がはねられ潰されるようであった

と証言している、という。

 

 殺戮はそれだけではすまない。 後続の自動車隊から降りてきたソ連兵が、幼児といえども情け容赦なく、それが既に冷たい屍になっていようが見境なく、マンドリン自動小銃)を射ちこみ銃剣で止めを刺した。

 先を急ぐソ連軍機甲部隊にとっては、とぼとぼ動く難民の列は前進を妨げる障害物以外のなにものでもなかったのか。

 

 当時小学校下級生で、幸運にも生き残った田中忍という女性の手記がある。ほかにも

いくつかの生存者の回想が残されているが、ここではこの手記を長く引用する。

「誰も口を利かない長い行列は、丘から丘につづいて、その先は見えない。 食糧をつんだトラックと馬車が何台も通り過ぎ、その上に日焼けした老人とおなかの大きい人が乗っていた。

 母は背中に、もうすぐ4歳になる弟をおんぶし、私は2人の弟の手を引いて、母のあとをいそいだ。 焼けつくような太陽が照りつけて、道端に捨てられた荷物も段々とふえていった。 突然『ビューッ』と弾丸の音がした。 父が大声で『かくれろ!!』と云ったので、皆で溝の中に身を伏せた。 銃声と戦車の音がきびしく、上の方で何がおこっているのかわからない。 その時父が立ち上がって動こうとした。

『お父さん、動いてはダメ』と私は父の足をつかんだ。 だが父はどこかに行ったまま、私たちの所には帰ってこなかった。

 

 銃声はひどくどの位時間がたったのかわからない。男の人が『集まれ‼』と号令をかけた。 

 私たち親子5人が歩いて行った先には、行列の3分の1位の人がいたように思った。

そこに銃声が近づき、自動小銃を持ったソ連兵にとり囲まれた。

自動小銃が鳴り、護身用に持ってきた手榴弾があちこちではじけ、母と9歳の弟は息が切れた。 私も腰から血をふき前に倒れた。

 『お姉ちゃん』と妹と弟が大粒の涙をこぼしながら、血の海の中を這ってきた」

 

 ソ連軍が去ったあと葛根廟の丘を、やがて赤い夕陽が、なぶり殺しにされた千数百人の鮮血で染めたかのように赤く照らし、いつものように沈んでいったという。

(中略)

 それがあとにつづく悲劇の前ぶれのごとくに、市内の治安はその日を境に混乱し、乱れに乱れていった。ソ連兵の乱暴狼藉はいまや目に余るものとなった。

 赤旗や青天白日旗をかざした一部の中国人満州人)も反日行動をあらわにしはじめた。

 かれらは争うようにして、日本人を襲った。

殺人、婦女強姦、略奪、暴行はひんぴんとして行われだした。

(中略)

ソ連兵は時計と万年筆を強奪するから外出のときに持ち歩くな、という注意もいち早く伝わった。 それと知らず、白昼路上で拳銃を片手のソ連兵によびとめられ、

「チャスイ、チャスイ(時計)」

と、腕時計をひったくられる日本人があとを絶たなかった、しかもそのソ連兵の腕には10数個腕時計が誇らしげにはめられている。

 

 街頭ばかりではなく、日本人住宅に押し入って手当たり次第に略奪するもののなかには、将校を先頭の部隊ぐるみのものもある。 それも、ソ連軍はどんどん新京に入り、一泊してまた南へ下っていく。 新規の侵入者が、新しい立場で押し入ってくる。

腕時計や万年筆はもとより、布地、長靴などを、かれらは先を争うようにして奪いとっていった。

 こうしたソ連兵の暴行、略奪は新京にかぎったことではない。 満州のいたるところの都市でも、容赦なく行われている。

 

 8月18日、ハルビン市の中心の大直街をソ連軍の巨大戦車数十輌が行進した。 この日からこの市もソ連兵による強奪、略奪、暴行、強姦の街と化した。

当時、ハルビンの日本人国民学校5年生であった俳優の宝田明がそのときの体験を、1998年11月28日付の毎日新聞に語っている。

 

女性と子供は丸刈りになり、日中でも一人で外出することは禁止になった。 しかし、白昼、買い物に出かけた近所の奥さんが、マンドリンと呼ばれた自動小銃を抱えたソ連兵に捕まり、社宅裏の空き地で強姦されるのを目の当たりにした。/ ソ連兵は、夜はもちろん日中も社宅を襲った。 時計、ラジオを略奪していった。狙うのは日本人の家だけ。

 マンドリンを突きつけられれば、なすがまま、ただ出ていくのを待つしかなかったという。 蓄えてあった食料も根こそぎ持っていかれた。/街に出て稼ぐしかなかった。ソ連兵相手の靴磨きを始めた。

(中略)

…そのころ、ハルビンの街に、奥地の開拓団の日本人が、引き揚げの指示を待ちきれず20人、30人の集団でやって来た。毛布やリュックサックを背負い、子供の手を引いて、『先に行かせていただきます。お先に』。そう言いながら、徒歩で南に向かった。/『あの人たちの大部分が、途中で殺されたり、畑の中を逃げまどったりしたんです。そして子供をどこかに預けていったんです』/…『近いうちに、また連れ戻しにきますから』。そう言って、子供を預ける親がたくさんいた。『お礼』にジャガイモをもらって。『親は飢えをしのぐ。子供も殺すより預けた方がいい。それで置いてきた子がたくさんいた。かわいそうで……』」

(中略)

 それはある意味では、対ドイツ戦線での習慣を満州にまでもちこんできたものであったかもしれない。 ドイツでは、老女から4歳の子供にいたるまで、エルベ川の東方で暴行されずに残ったものはほとんどいない、といわれている。

 あるロシア人将校は、一週間のうちに少なくとも250人に暴行されたドイツ人少女に出会い さすがに愕然とした、という記録が残されている。

 

 ドイツ戦線で、そして満州で、ソ連軍将校の素質の悪さについては、他にもさまざまな書物がふれている。しかもその残虐行為は上からの指示によるとも伝えられている。

 スターリンの娘スペトラーナもこれを裏づける証言をしている。

 それによると、スターリンはヨーロッパを荒廃させることを奨励し、それに喜びを感じていた。 その意図には、赤軍の暴虐さを許すことで敵国の嫌悪を買い、親しくなることで堕落しないようにしむけた、といった複雑性を含んでいたという。

 

 シベリアのラーゲリで、作業係のソ連軍の上級中尉が酔っぱらって語った証言を書きとめている日本人もいる。

 それによると、スターリングラード防衛戦で有名をはせたロコフスキー元帥は、囚人のなかから選ばれた軍人であるという。

「彼はその部隊を全部囚人仲間から編制した。ウォトカを飲み放題に飲ませた。無鉄砲な囚人たちが酒の勢いで猛攻を重ねた」。そしてその軍隊が満州に送られてきたのであるという。

 

 しかも、ソ連戦車がドイツの民間人や避難民や婦女子を攻撃し、轢き殺しているという報告がスターリンのもとにとどいたとき、この独裁者は上機嫌でいった。

 「われわれはわが軍の兵士たちにあまりにも沢山の説教をしてきた。少しくらいは自主性を発揮させてやれ

 つまりスターリン大元帥を頂点として、上級指揮者の黙認のもとに、ヨーロッパと同様に満州でも略奪や暴行が行われていたとみられるのである。

 それも戦争一般にありがちの偶発的、個別的な現象ではなく、意図的かつ組織的な犯行である。

(中略)

 ある百貨店がソ連軍部隊に襲われ、目ぼしいものはみなトラックに運ばれていった。

そのあと中国人(満州人)が蟻のように集まり、残った半端ものにむらがる。と、待ち構えていたソ連兵が空砲で威嚇射撃をして、かれらを追い払う。

 この場面をソ連のカメラマンが丹念に撮影し、ソ連兵が必死に略奪を防止している、という証拠をつくるのである。

 略奪したのは中国人であり、ソ連兵ではない。 まさに合法的な略奪というほかない。 以下略

 

長々と引用しましたが、裏から参入したソ連(現ロシア)の卑怯さ、残虐さ、狡猾さを知っていただきたいと思います。

 

しかし…なぜだか日本ではこの旧ソ連のした犯罪を報道しません。

これだけ多くの邦人犠牲者を出しながら、沈黙したままです。

どういうことでしょうかね?

 

それにしても…朝日新聞は、この恐ろしいスターリンを…

【これでも朝日新聞を読みますか?】山際澄夫

 

f:id:chaonyanko2:20190530170133j:plain

> 朝日新聞はもともと、毛沢東の中国、金日成北朝鮮スターリンソ連、それにポルポトカンボジアに対する著しい礼賛報道で知られる。

 これらの国ではそれぞれ人類史に例を見ない自国民に対する大量虐殺を行ったことが後になって明らかになっているが、朝日新聞紙面では毛沢東が発動した文化大革命を「近代化への模索」(1967年8月11日)と論じたり、スターリンを「子共好きなおじさん」(1953年3月7日夕刊)、カンボジアポルポトを「アジア的な優しさに溢れている」(1975年4月19日夕刊)と報じたりした。 以下略

f:id:chaonyanko2:20190530170927j:plain

※画像はお借りしました。

 

日本共産党も…

f:id:chaonyanko2:20190530171038j:plain

>「平和と解放のみちびきの星」

 「スターリンはわれらの胸に」

1953年4月

 

もうね…朝日新聞も、日本共産党も…狂ってますね!

この時期には、まだ満州から引揚げてきた方々も生存していたし、シベリア抑留された兵士たちの家族も沢山いらしたわけです。

どういう神経で「スターリン礼賛」が出来たのでしょうか?

 

最後までお読みくださいまして有難うございます。

誤字、脱字がございましたらご容赦くださいませ。<m(__)m>

リンクフリーの記事です。皆様のお役に立ちましたら幸いです。

なぜ、今頃に日本共産党員(峠三吉)の礼賛記事を載せる?

今日もお立ち寄り有難うございます。

 

先日に続き、怪しげな記事を見つけていましたので、今日もそのことについて書きたいと思います。

 

毎日新聞 2019.5.18

GHQ言論統制下の抵抗運動 反戦反核のメッセージ描く「辻詩」関西初公開

f:id:chaonyanko2:20190527141502j:plain

連合軍総司令部GHQ)による言論統制、新聞紙大に詩と絵の反戦反核のメッセージを描いて街頭に張り出す「辻詩(つじし)」と呼ばれる抵抗運動が広島であった。「にんげんかえせ」で有名な詩人、峠三吉(1917~53年)と絵本「おこりじぞう」で知られる画家の四国五郎(24~2014年)が中心となり、150枚~200枚を制作したとされる。現存するする全8枚が、大阪総合学術博物館(大阪府豊中市)で開催中の四国の回顧録で、関西では初めて紹介されている。

 

辻詩が描かれたのは、朝鮮戦争が始まった1950年の前後から峠が亡くなるまで

GHQは当時、プレスコードで占領軍批判につながる原爆被害の報道を抑え込んでいたが、朝鮮半島で原爆が使用される危機感が2人を突き動かした。

峠は45年8月6日の原爆投下を体験。

四国はシベリア抑留から帰国した48年に弟の被爆死を知り、翌年には峠が主催した文学サークル「われらの詩(うた)の会」に参加していた。

 

 峠の詩と四国の絵を組み合わせてポスターを制作。「辻説法」にヒントを得て、託された仲間たちが街頭に張り出し、官憲の手が迫ると折りたたんで逃げた。

以下略

 

まず、この記事で変だと思うのは、「峠三吉」が「日本共産党員」だったことが書かれていません。

そして、記事では中心となっていた「四国五郎」の写真はなく、日本共産党峠三吉の写真だけが出されていることです。

 

そして、「連合国総司令部(GHQ)による言論統制」とありますが、この時期、GHQ日本共産党は蜜月の時期でした。

新聞各社に日本共産党が入り込んで「言論統制」をしていたわけですから日本共産党峠三吉が逃げ隠れすることはありません。

むしろ、当時は日本共産党GHQへ情報を出していたのですから

    ⇓

GHQ 知られざる諜報戦 C.A.ウィロビー著

f:id:chaonyanko2:20190527150244j:plain

ソープは皇族の梨本宮守正王を戦犯容疑で逮捕し、皇弟の秩父宮も逮捕しようとした。秩父宮の件は逮捕寸前に私が押さえたけれど、特高を全面的に解散してしまったり政治犯全員を刑務所から釈放させたのも彼である。

 

> GSは日本自由党総裁・鳩山一郎の追放も狙っていた。鳩山は次の総選挙後の最有力首相候補だった。CICからの報告からの報告によれば、この件に関して、当時日本共産党がGSにかなりの“鳩山情報”を流していた形跡がある。

(中略)

 わがG2では、GSがよもや鳩山を追放しようとは思っていなかった。しかし鳩山は追放された。

ここで興味があるのは、当時の共産党機関紙『アカハタ』の鳩山攻撃記事と、GSの発表した説明とが酷似していたことである。こうしたことから、鳩山の追放が政治情勢のかね合いからなされても仕方ない要素があったことは事実である。

 以下略

 

毎日新聞には「官憲の手が迫ると折りたたんで逃げた」と書かれていますが、『GHQ知られざる諜報戦』には、「ソープが特高(官憲)を解散させた」ということが書いてあります。

日本共産党員が官憲から逃げまくっていたのは、「戦前」の話です。

ここで、フェイクニュースだということが分かります。

 

GHQ日本共産党員を監獄から出したわけですから、日本共産党員はGHQに感謝をし、共産党の意見をGHQに発信し続けたことは間違いありません。

実際、当時、日本共産党GHQのことを「解放軍」と呼んで諸手を挙げて喜んでいたのです

   ⇓

大原社会問題研究所より

戦時抵抗と政治犯の釈放

f:id:chaonyanko2:20190527152830j:plain

GHQへの感謝デモ

 岩田:自由戦士出獄歓迎人民大会は、午後5時少し前、実行委員会が提案したGHQに対する感謝デモの実施を決議して終わりました。

このデモは人権令をはじめ、日本が、GHQの尽力によりデモクラシーと平和の国家として再建の途についたことに対して、日本人民として感謝の意を表するという名目で企画されたものでした。

(中略)

 GHQに対する感謝デモは、急ごしらえの赤旗や「天皇制打倒!」「戦争犯罪人を処罰せよ!」といったプラカードを掲げて出発した。

以下略

 

戦争犯罪人を処罰せよ」とは… 日本共産党東条英機やその他の人々を「犯罪人」として「死刑」に加担したということでしょうか?

これは、あまりにも腹立たしい話ですね。

許せない! ますます日本共産党への憎悪が高まりました!

 

次に、毎日新聞の記事が偏っていると感じたのは…

四国五郎はシベリア抑留から帰国した…」というところです。

それなのに、毎日新聞は「ソ連の残忍なシベリア抑留」に一言も触れていません

 

四国五郎は、Wikipediaによると

「生死を彷徨う体験をしながら、自分で豆のようなノートを作り、それに克明に記録を取り靴の中に入れて密かに日本に持ち帰った。 帰国後すぐに記録を絵と共に1000ページ近い絵日記(『わが青春の記録』)として復元し、シベリア抑留の貴重な生の記録となっている。また、自らの飯盒にシベリアの仲間達の名前を60名近く掘り込み、その上からペンキを塗り文字を隠して日本に持ち帰った。シベリア(※ソ連)から記録を持ち帰ることはスパイ罪と見なされ、厳しく制限されたが、四国は持ち帰ることに成功している。 シベリア抑留者の中で、四国のように、豆のような日記や名前の掘りこまれた飯盒を日本に持ち帰った例は、他にはないと言われている」

 

このような貴重な資料を持っている四国五郎を無視したような記事には、何か意図的なものを感じます。

反戦」を謳うのなら、四国五郎のシベリア抑留のことも記事にすべきではないでしょうか。

 

※シベリア抑留について書いてあります。

    ⇓ 

敵を間違えた米国:平和の敵は日本ではなく「共産主義者」だった。 - 姥桜

 共産主義が残忍なのは、サタン宗教が基本にあるから。 - 姥桜

 マルクス・レーニン主義(共産主義)と悪魔信仰 - 姥桜

 

当時の日本人は、実はアメリカよりもソ連に対して憤慨していたのです。

    ⇓

GHQ知られざる諜報戦』より

f:id:chaonyanko2:20190527155644p:plain

二葉百合子の「岸壁の母」という歌は長く歌い続けられました。

戦争体験のない私も、子供心に…辛く哀しい母親の気持ちが伝わってきて暗い気持ちになったものです。

 

ソ連侵攻」は、私が高校生の時に満州帰りの恩師から聞かされていたものですから、私も肌で感じるものがあります。

 

ソ連は「日ソ中立(不戦)条約」を交わしていたにも関わらず、日本が降伏して日本軍が武器を捨てた時…突如、満州に極悪なソ連軍(ほとんどが犯罪人だった)を乗り込ませ、椋奪、掠辱、惨殺を繰り返していき、あげくに丸裸の日本軍や非戦闘員まで強制的にシベリアへ強制連行していきました。

そして、そこで過酷な強制労働と洗脳教育が行われたのでした。

 

その体験を四国五郎自身がメモにとり、告発をしているわけです。

それなのに、峠三吉日本共産党)の「原爆」の話一つで終わらすのは、何か意図でもあるのかと疑いたくなります。

 

 

『異国の丘』とソ連・日本共産党 

より画像を転載させて頂きます。

f:id:chaonyanko2:20190527160733p:plain

f:id:chaonyanko2:20190527160700j:plain

f:id:chaonyanko2:20190527160217j:plain

 

f:id:chaonyanko2:20190527160447j:plain

f:id:chaonyanko2:20190527160529j:plain

f:id:chaonyanko2:20190527160556j:plain

f:id:chaonyanko2:20190527160626j:plain

 

恩師から聞かされた「ソ連侵攻」の時の残虐性は、またの機会に書かせて頂きますが、当時の日本人にはソ連に対しての憎悪は激しいものがあったと思います。

また、スターリンの犯罪の共謀者は日本共産党だったということを私たちは忘れてはならないと思います。

 

それでは、当時の日本人は広島、長崎の原爆のことを知らされなかったのか?ということですが、ちゃんと新聞で知らされていました。

   ⇓

報知新聞 昭和20年8月15日

天皇陛下の「戦争終結 詔書」の紙面ですが…

f:id:chaonyanko2:20190527161214j:plain

二面に「新型爆弾」として記事に載っています。

f:id:chaonyanko2:20190527161738j:plain

>「輻射光線は紫外線 被害中心地の長期滞在は危険 落下傘は観測用装置」

 

f:id:chaonyanko2:20190527161717j:plain

「一千万倍のエネルギー放出 普通火薬一の二万倍に匹敵」

 

f:id:chaonyanko2:20190527162314j:plain

「“原子爆弾”出現まで 米側の発表」

 米大統領トルーマンは七日朝声明を発表、広島市爆撃は原子爆弾によったものなることを明らかにした…

 

ソ連と共に、当時のアメリカこそ「ハーグ陸戦条約」に違反していますので、「戦争犯罪」「平和に対する罪」に問われるべきと思います。

今、米国のトランプ大統領国賓として来日されていることが、不思議な感じがします。(※私は決して「反米」ではありません。日米同盟は堅持すべきと考えています)

 

最後までお読みくださいまして有難うございます。

誤字、脱字がございましたらご容赦くださいませ。

リンクフリーの記事です。皆様のお役に立てれば幸いです。

なぜ、今頃になって西園寺公望の幽霊を登場させて捏造する?

今日もお立ち寄り有難うございます。

 

先日の「なぜ、今頃になって共産主義者近衛文麿、細川嘉六)を礼賛する?」の記事に続き、また、奇怪な記事を見つけていましたので、その記事を取り上げたいと思います。

 

静岡新聞 2019.4.16

西園寺公望の晩年を小説に 興津坐漁荘舞台、静岡の男性が出版

f:id:chaonyanko2:20190525140453j:plain

静岡市清水区小学校教員小泉達生さん(60)がこのほど、同区の興津坐漁荘で晩年を過ごした元老西園寺公望を描いた小説「明治を創った男 西園寺公望が生きた時代」を幻灯舎から出版した。

 

 西園寺は明治末期に2度首相を務め、元老として天皇を支えた政治家。自国の利益を優先する帝国主義が国際社会を覆った戦前に、太平洋戦争の無謀さを説き、国際協調の必要性を訴えた。

(中略)

 出版は、2018年6月に小泉さんが理事を務める同区のNPO法人「AYUドリーム」などが行った西園寺の朗読劇の脚本を、小泉さんが担当したことがきっかけ。文献研究や興津での取材を重ね、史実とフィクションを織り交ぜて脚本を加筆修正した。

 

 小泉さんは「『いったいこの国をどこへ持っていくのや』との西園寺の最期の言葉は現代の日本、国際社会にも通じる問い。 以下略

 

要は、「憲法改正に反対」を訴えたいのでしょうね。

しかし、実在した人物に「フィクション(作り話、虚構)」を加えると、事実が歪められてしまいます。とても危険なことです。

とは言え、中国と韓国、北朝鮮の歴史はすべて「フィクション」ですが…。

 

それからこの元小学校教師が理事を務めるNPO法人「AYUドリーム」は、もしかして在日韓国人向け?の法人なのでしょうか?

 

NPO法人」は内閣府の方で開示していますので、簡単に調べることができます。

f:id:chaonyanko2:20190525145034p:plain

体験型として朝鮮しています。

たぶん、「挑戦」と言いたかったのでしょうが、頭の中が「朝鮮」でいっぱいだったんでしょうね。

日教組」は、「チュチェ思想」ですので、おそらく、「朝鮮学校」の生徒を前提にしてこのような団体を立ち上げたのでしょう。因みに、朝鮮学校に通っているのは在日韓国人の子供が大半だそうです。

なので、「民団」が赤化するのは仕方ないかな。

 

そもそも「自国の利益を優先する帝国主義が国際社会を覆った戦前」というのは、コミンテルンソ連コミンテルン=国際共産主義)が主張したことですね。

戦前は、イギリスなど欧米列強がアフリカやアジアを植民地にしていた時代です。

帝政ロシア」を滅ぼしたのは、マルクス主義レーニンです。

 

「自国の利益を優先する帝国主義」とは、もしかして米国のトランプ大統領を暗に批判しているのかも…

しかし、今回の貿易戦争は、元はいえば中国が自国(中共)の利益を優先して、外国企業から技術を盗み、やりたい放題してきたからに他なりません。

 

戦前に、太平洋戦争の無謀さを説き、国際協調の必要性を訴えた

  ⇑

あれ?西園寺公望1940年11月24日に死亡していますよ。

「太平洋戦争」は1941年12月12日に始まりました

西園寺公望は…まさか幽霊になって出てきて、「太平洋戦争」を予言していたと言いたいのでしょうか?

 

しかも西園寺公望が「太平洋戦争」?を憂いていた?

「太平洋戦争」とは戦後に、アメリカが付けた呼称で、日本は「大東亜戦争」と呼んでました。

 

この方…小学校の教員だったんですよね。 小学生でもこの先生の小説に疑問を抱くのではないのでしょうか。

 

「国際協調の必要性を」とは、今は日米欧、台湾、東南アジア諸国の協調性を大切にしなくてはなりません。

中国の南シナ海の侵略、台湾への干渉、尖閣諸島への領海侵犯等々、今はとにかく中国の横暴を叩き阻止しなければなりません。

国際社会の平和と安定のために…

戦前と現代とでは、状況が違います。

 

ましてや、西園寺公望は…

神戸大学新聞文庫 1940.11.26

大阪毎日新聞

f:id:chaonyanko2:20190525144405j:plain

>明治、大正、昭和の重大時局に御奉公

 政党政治から挙国内閣へ

 

犬養首相の兇変から斉藤子奏薦までの園公熟慮の一週間は実にわが国政界の大転換であり後継首相泰薦の責任者たる元老西園寺公が政党内閣制を遂に諦めて、挙国一致内閣制へと移行したわが国政治史上の画期であったのである、次の岡田内閣が昭和十一年二・二六事件で倒れるや園公は三月二日上京し政局重大で沈思黙考二日間、四日近衛公奏薦、近衛公の拝辞、五日広田外相奏薦となって政局は安定したがこれが園公八十八歳の老躯を掲げて御下問に奏答するため上京した最後となったのである、

(中略)

かく元老園公の功績を辿り来ればこれ全く大正、昭和におけるわが国政治動向の軌道を敷いたものというべく政党政治の確立より挙国一致内閣制への移行―これ園公の元老としての最期の御奉公であったといえよう

 

西園寺公望は88歳で(※かなりの美食家で、糖尿病を患っていた)引退したそうですから、1937年には引退していたことになります。 それならば尚更「太平洋戦争」なんて知る由もありませんね。

 

ただ、公望が「挙国一致内閣」を作ったということは、もしかしたら「戦争突入」になることを考えてのことではないでしょうか。

なぜなら、この時期、支、英、米などの国々から日本に対日通牒がなされ、日本を孤立化させる動きが激しくなってきていました。

 

神戸大学新聞文庫より

・「果たして裏面で英支がこの握手 駐支英公使の火事場泥棒的活躍昭和6年10月31日 大阪毎日新聞

・「張(※学良)蒋(※蒋介石)支援に熱する英國公使の活躍 本國政府とゼネヴアを動かし 全面的反日の苦肉策昭和6年10月27日 時事新報

・「撤退は一部 日本を窮地に陥れんとする狡猾手段 英國公使の露骨な策動昭和6年12月31日 大阪毎日新聞

・「米国の対日通牒の反響」 昭和7年1月10日 大阪毎日新聞

・「また、日本へ米国から抗議 単独?英国と共同?」 昭和7年1月27日 大阪毎日新聞

・「経済封鎖を聯盟に要求か 圖に乗る支那政府昭和7年1月10日 大阪朝日新聞

・「邦人自警團員 米海兵に逮捕さる 共同租界内警戒中昭和7年1月31日 大阪毎日新聞

・「背後から聯盟を操る米國務卿昭和7年2月19日 大阪毎日新聞

・「米國の親支策は 日米戦争を起こさん 次期大統領指名に乗出した マレー氏の第一聲昭和7年2月25日 大阪時事新報

・「果然、スチムソン卿 對日強硬を力説 イーマンス委員長と会見し 米國の態度を表明昭和7年4月24日

・「奇怪な挑戦的言辞 費府での米國務卿の演説を 軍部側は重視す昭和7年10月3日 大阪朝日新聞

・「奇怪なる米國の言動 平和破壊者としての責任を問ふ昭和7年10月6日 国民新聞

・「リットン卿遂に 反日の正体暴露 米國務卿 の演説を支持し 世界興論の圧力高唱昭和7年10月8日 大阪朝日新聞

「“露豪条約”を利用し 露支密約成立に拍車 国民政府内に親露派擡頭す昭和11年4月10日 大阪毎日新聞

・「對日感情 次第に悪化 学良等の宣伝を鵜呑み 入満問題でも疑心暗鬼昭和7年4月18日 大阪毎日新聞

・「米露の接近昭和7年12月30日 国民新聞

・「事變中に西沙島占領佛の真意了解し得ず 帝国・佛大使に注意喚起」昭和13日7月9日

以下略

 

公望が心底嘆かなければならないことは、近衛文麿を首相に奏薦したのは、元老西園寺公望自身だったことです。

近衛内閣のブレーンには、共産主義者ばかりが集結していました。

近衛文麿自身も河合肇(国際共産主義者)という学者にマルクス経済を学んでいます。

そして、ソ連コミンテルン工作員:尾崎秀実が内閣を牛耳っていたわけです。

尾崎秀実は「南進論」を説いて、「一億玉砕」「鬼畜米英」と国民を戦火の中へ押し込んだのです(敗戦革命論)。

 

恐らく、西園寺公望は悔やんでも悔やみきれなかったことでしょう(生きていれば…)。

 

さて、それではなぜ今、西園寺公望を利用して歪曲化した小説を出したのでしょうか?

まさか、西園寺公望の孫の「西園寺公一」と會孫「西園寺一晃」を礼賛するためなのか?

西園寺公一は、アメリカに留学中にマルクス主義の洗礼を受けて、共産主義者になります。そして、近衛内閣のブレーンとなり、「ゾルゲ事件」で尾崎秀実と連座して逮捕され、爵位継承を剥奪されます。

 

その後、中華人民共和国へ移住します

 

「亡国 スパイ秘録」佐々淳行著より

f:id:chaonyanko2:20190523144151p:plain

『人民中国』

f:id:chaonyanko2:20190525163035j:plain

>「水を飲むとき、井戸を掘った人を忘れない」

 友好に生涯をささげた二人の日本人

 

 宇都宮徳馬西園寺公一―両氏はともにその生涯をかけ、日本と中国の友好のために奮闘した。 以下略

 

宇都宮徳馬(元日中友好協会会長)は、「よど号ハイジャック犯」の機関紙にも寄稿した共産主義者です。

よど号ハイジャック犯の「日本人獲得工作」「反核運動」に加担した左翼人士 - 姥桜

宇都宮徳馬の子供や孫も「日中友好協会」の関係者です。

 

西園寺一晃孔子学院学長)は、今も何かと中共にこき使われているようです。

 

それから、それから…

あのチュチェ思想研究会」の武者小路公秀は、西園寺公一とは従妹同士にあたります。

「徴用工問題」の陰に日本共産党と「広範な国民連合」というプロ市民の陰が - 姥桜

 

 

はてさて、西園寺公望は草葉の陰で…「どうして?こうなるのか?情けなや」と嘆いておられることでしょう。

しかも、朝鮮系の人々に自分の歴史を歪曲されて利用されているんですから…

 

最後までお付き合いくださいまして有難うございます。

誤字、脱字がございましたらご容赦くださいませ。<m(__)m>

リンクフリーの記事です。皆様のお役に立てれば幸いです。