今日もお立ち寄り有難うございます。
先日に続き、怪しげな記事を見つけていましたので、今日もそのことについて書きたいと思います。
毎日新聞 2019.5.18
GHQ言論統制下の抵抗運動 反戦・反核のメッセージ描く「辻詩」関西初公開
>連合軍総司令部(GHQ)による言論統制下、新聞紙大に詩と絵の反戦・反核のメッセージを描いて街頭に張り出す「辻詩(つじし)」と呼ばれる抵抗運動が広島であった。「にんげんかえせ」で有名な詩人、峠三吉(1917~53年)と絵本「おこりじぞう」で知られる画家の四国五郎(24~2014年)が中心となり、150枚~200枚を制作したとされる。現存するする全8枚が、大阪総合学術博物館(大阪府豊中市)で開催中の四国の回顧録で、関西では初めて紹介されている。
辻詩が描かれたのは、朝鮮戦争が始まった1950年の前後から峠が亡くなるまで。
GHQは当時、プレスコードで占領軍批判につながる原爆被害の報道を抑え込んでいたが、朝鮮半島で原爆が使用される危機感が2人を突き動かした。
峠は45年8月6日の原爆投下を体験。
四国はシベリア抑留から帰国した48年に弟の被爆死を知り、翌年には峠が主催した文学サークル「われらの詩(うた)の会」に参加していた。
峠の詩と四国の絵を組み合わせてポスターを制作。「辻説法」にヒントを得て、託された仲間たちが街頭に張り出し、官憲の手が迫ると折りたたんで逃げた。
以下略
まず、この記事で変だと思うのは、「峠三吉」が「日本共産党員」だったことが書かれていません。
そして、記事では中心となっていた「四国五郎」の写真はなく、日本共産党の峠三吉の写真だけが出されていることです。
そして、「連合国総司令部(GHQ)による言論統制下」とありますが、この時期、GHQと日本共産党は蜜月の時期でした。
新聞各社に日本共産党が入り込んで「言論統制」をしていたわけですから、日本共産党の峠三吉が逃げ隠れすることはありません。
むしろ、当時は日本共産党がGHQへ情報を出していたのですから。
⇓
GHQ 知られざる諜報戦 C.A.ウィロビー著
>ソープは皇族の梨本宮守正王を戦犯容疑で逮捕し、皇弟の秩父宮も逮捕しようとした。秩父宮の件は逮捕寸前に私が押さえたけれど、特高を全面的に解散してしまったり、政治犯全員を刑務所から釈放させたのも彼である。
> GSは日本自由党総裁・鳩山一郎の追放も狙っていた。鳩山は次の総選挙後の最有力首相候補だった。CICからの報告からの報告によれば、この件に関して、当時日本共産党がGSにかなりの“鳩山情報”を流していた形跡がある。
(中略)
わがG2では、GSがよもや鳩山を追放しようとは思っていなかった。しかし鳩山は追放された。
ここで興味があるのは、当時の共産党機関紙『アカハタ』の鳩山攻撃記事と、GSの発表した説明とが酷似していたことである。こうしたことから、鳩山の追放が政治情勢のかね合いからなされても仕方ない要素があったことは事実である。
以下略
毎日新聞には「官憲の手が迫ると折りたたんで逃げた」と書かれていますが、『GHQ知られざる諜報戦』には、「ソープが特高(官憲)を解散させた」ということが書いてあります。
日本共産党員が官憲から逃げまくっていたのは、「戦前」の話です。
ここで、フェイクニュースだということが分かります。
GHQが日本共産党員を監獄から出したわけですから、日本共産党員はGHQに感謝をし、共産党の意見をGHQに発信し続けたことは間違いありません。
実際、当時、日本共産党はGHQのことを「解放軍」と呼んで諸手を挙げて喜んでいたのです。
⇓
戦時抵抗と政治犯の釈放
>GHQへの感謝デモ
岩田:自由戦士出獄歓迎人民大会は、午後5時少し前、実行委員会が提案したGHQに対する感謝デモの実施を決議して終わりました。
このデモは人権令をはじめ、日本が、GHQの尽力によりデモクラシーと平和の国家として再建の途についたことに対して、日本人民として感謝の意を表するという名目で企画されたものでした。
(中略)
GHQに対する感謝デモは、急ごしらえの赤旗や「天皇制打倒!」「戦争犯罪人を処罰せよ!」といったプラカードを掲げて出発した。
以下略
「戦争犯罪人を処罰せよ」とは… 日本共産党が東条英機やその他の人々を「犯罪人」として「死刑」に加担したということでしょうか?
これは、あまりにも腹立たしい話ですね。
許せない! ますます日本共産党への憎悪が高まりました!
次に、毎日新聞の記事が偏っていると感じたのは…
「四国五郎はシベリア抑留から帰国した…」というところです。
それなのに、毎日新聞は「ソ連の残忍なシベリア抑留」に一言も触れていません。
四国五郎は、Wikipediaによると
「生死を彷徨う体験をしながら、自分で豆のようなノートを作り、それに克明に記録を取り靴の中に入れて密かに日本に持ち帰った。 帰国後すぐに記録を絵と共に1000ページ近い絵日記(『わが青春の記録』)として復元し、シベリア抑留の貴重な生の記録となっている。また、自らの飯盒にシベリアの仲間達の名前を60名近く掘り込み、その上からペンキを塗り文字を隠して日本に持ち帰った。シベリア(※ソ連)から記録を持ち帰ることはスパイ罪と見なされ、厳しく制限されたが、四国は持ち帰ることに成功している。 シベリア抑留者の中で、四国のように、豆のような日記や名前の掘りこまれた飯盒を日本に持ち帰った例は、他にはないと言われている」
このような貴重な資料を持っている四国五郎を無視したような記事には、何か意図的なものを感じます。
「反戦」を謳うのなら、四国五郎のシベリア抑留のことも記事にすべきではないでしょうか。
※シベリア抑留について書いてあります。
⇓
敵を間違えた米国:平和の敵は日本ではなく「共産主義者」だった。 - 姥桜
共産主義が残忍なのは、サタン宗教が基本にあるから。 - 姥桜
当時の日本人は、実はアメリカよりもソ連に対して憤慨していたのです。
⇓
『GHQ知られざる諜報戦』より
※二葉百合子の「岸壁の母」という歌は長く歌い続けられました。
戦争体験のない私も、子供心に…辛く哀しい母親の気持ちが伝わってきて暗い気持ちになったものです。
「ソ連侵攻」は、私が高校生の時に満州帰りの恩師から聞かされていたものですから、私も肌で感じるものがあります。
ソ連は「日ソ中立(不戦)条約」を交わしていたにも関わらず、日本が降伏して日本軍が武器を捨てた時…突如、満州に極悪なソ連軍(ほとんどが犯罪人だった)を乗り込ませ、椋奪、掠辱、惨殺を繰り返していき、あげくに丸裸の日本軍や非戦闘員まで強制的にシベリアへ強制連行していきました。
そして、そこで過酷な強制労働と洗脳教育が行われたのでした。
その体験を四国五郎自身がメモにとり、告発をしているわけです。
それなのに、峠三吉(日本共産党)の「原爆」の話一つで終わらすのは、何か意図でもあるのかと疑いたくなります。
より画像を転載させて頂きます。
恩師から聞かされた「ソ連侵攻」の時の残虐性は、またの機会に書かせて頂きますが、当時の日本人にはソ連に対しての憎悪は激しいものがあったと思います。
また、スターリンの犯罪の共謀者は日本共産党だったということを私たちは忘れてはならないと思います。
それでは、当時の日本人は広島、長崎の原爆のことを知らされなかったのか?ということですが、ちゃんと新聞で知らされていました。
⇓
報知新聞 昭和20年8月15日
二面に「新型爆弾」として記事に載っています。
>「輻射光線は紫外線 被害中心地の長期滞在は危険 落下傘は観測用装置」
>「一千万倍のエネルギー放出 普通火薬一の二万倍に匹敵」
>「“原子爆弾”出現まで 米側の発表」
ソ連と共に、当時のアメリカこそ「ハーグ陸戦条約」に違反していますので、「戦争犯罪」「平和に対する罪」に問われるべきと思います。
今、米国のトランプ大統領が国賓として来日されていることが、不思議な感じがします。(※私は決して「反米」ではありません。日米同盟は堅持すべきと考えています)
最後までお読みくださいまして有難うございます。
誤字、脱字がございましたらご容赦くださいませ。
リンクフリーの記事です。皆様のお役に立てれば幸いです。