今日もお立ち寄り有難うございます。
1930年代、コミンテルンと大韓民国臨時政府の策略にかかり、中国(支那)大陸は邦人にとって恐怖となったわけですが、中国(支那)人にもその恐怖が及んでいました。
『漢奸 Wikipedia』
漢奸とは、漢民族の裏切り者・背叛者のことを表す。
転じて、現代中国社会においては中華民族の中で進んで異民族や外国の侵略者の手先となる者を指している。 日中戦争の際には、漢奸狩りが実行され、多数が虐殺された。
中国において売国奴を指す言葉だが、字義通り受け止めれば、「漢民族を裏切った奸者」ということになる。
(中略)
日中戦争における「漢奸」
日中戦争中及び戦争終結後には日本への協力の有無に関わらず、日本について「よく知っている」だけの中国人でも「漢奸」として直ちに処刑されたり、裁判にかけられ た。 また、日本に協力する者であれば漢民族でなくても「漢奸」と呼称した。
(中略)
上海南市にある老西門の広場では第二次上海事変勃発後、毎日数十人が漢奸として処刑され、その総数は4000名に達し、中には政府の官吏も300名以上含まれていた。処刑された者の首は格子のついた箱に入れられ電柱にぶらさげて晒しものにされた。
上海南陶では1人の目撃者によって確認されただけでも100名以上が斬首刑によって処刑された。
(中略)
戦争が始まる漢奸の名目で銃殺される者は南京では連日80人にも及び、その数が減ったものの1937年(昭和12年)11月までに約2000名に達し、多くは日本留学生であった(当時南京にいた外国人からも日本留学生だった歯科医が漢奸の疑いで殺された具体例が報告されている)。
CNNで、漢奸狩りの様子を写真に撮り、フイルムを持ち帰ったスイス人がいました。
1996年9月23日
その当時の写真を一部抜粋します。
閲覧注意
さて、日本に留学していた…日本のことを知っている…というだけで多くの中国人が処刑されていったわけですが…
中国共産党の周恩来は日本の明治大学に留学していたし、周恩来の手下である対日大物工作員:寥承志(日中国交正常化を成した)は、日本生まれの日本育ち。
矛盾していますよね。
『マオ 誰も知らなかった毛沢東』ユン・チアン&ジョンハリディ著
1939年9月、独ソ不可侵条約が締結され、スターリンが日本とも同様の取引をする可能性が浮上したころ、毛沢東は日本の情報部と長期にわたる親密かつ極秘の協力関係を結んだ。
蒋介石に対する破壊工作を強化し、共産党軍を日本の攻撃から守るためである。
中国共産党側の工作責任者は潘漢年、日本側は上海総領事で幹部情報将校の岩井英一だった。
潘漢年は、「日本陸軍、憲兵隊、警察職員各位 本証の所持人に関する照会はすべて日本総領事館に寄せられたい」と書かれた日本の特別な身分証明書を与えられた。
延安と直接接触できるよう、岩井の自宅には延安から無線技士が派遣されたが、これは「危険すぎる」として実際に使われることはなかった。
潘漢年は、蒋介石軍の抗戦能力、蒋介石と中国共産党との軋轢や列強各国との関係、香港や重慶で活動中の英米スパイのリストなどの情報を岩井に提供した。
矛盾してますね。
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