鬼畜のごときの通州事件(2)

 前回の続きです。

通州事件 目撃者の証言』藤岡信勝 編集 より

f:id:chaonyanko2:20171127140936j:plain

この娘さんはすでに全裸になされております。そして恐怖のために動くことが出来ないのです。

その娘さんのところまで来ると下肢を大きく拡げました。

そして凌辱をはじめようとするのです。

(中略)

三人程の学生が拡げられるだけこの下肢を拡げるのです。

そして保安隊の兵隊が持っている銃を持って来てその銃身の先でこの娘さんの陰部の中に突き込むのです。

(中略)

ギャーッという悲鳴とともに叫びとも言えない声が聞こえてきました。

(中略)

保安隊の兵隊がニタニタ笑いながらこの娘さんの陰部を抉り取っているのです。

(中略)

その兵隊は今度は腹を縦に裂くのです。

それから剣で首を切り落としたのです。

その首をさっき捨てた男の人の屍体のところにポイと投げたのです。

投げられた首は地面をゴロゴロと転がって男の人の屍体の側で止まったのです。

 

(中略)

男の人達が五、六名兵隊たちの前に立たされています。

そして一人一人と日本の男の人が連れられて来ます。

十名程になったかと思うと、学生と兵隊が針金を持って来て右の手と左の手を指のところでしっかりくくりつけるのです。

そうして今度は銃に付ける剣を取り出すとその男の人の掌をグサッと突き刺して穴を開けようとするのです。

(中略)

集められた十名程の日本人の中にはまだ子供と思われる少年もいます。

そして六十才を超えたと思われる老人もいるのです。

(中略)

この十名近くの日本の男の人達を手を針金でくくり、掌のところを拳銃で抉りとった学生や兵隊達は今度は大きな針金を持って来てその掌の中に通すのです。

十人の日本の男の人が数珠繋ぎにされたのです。

(中略)

学生と兵隊達はこの日本の男の人達の下着を全部取ってしまったのです。

(中略)

二十才前後と思われる男のところに行くと足を拡げさせました。

そしてその男の人の男根を切り取ってしまったのです。

 

(中略)

恐らく恐怖のために口がきけなくなっていることだろうと思うのですが、その恐怖のために恐れおののいている女の人を見ると、女の私ですら綺麗だなあと思いました。

(中略)

とそのときです。

一人の日本人の男の人が木剣を持ってこの場に飛び込んで来ました。

そして「俺の家内と子供に何をするのだ。やめろ」と大声で叫んだのです。

(中略)

七名も八名もの支那の兵隊がこの男の人に詰め寄ってきましたが、この日本の男の人少しも怯みません。

(中略)

この国民党政府軍の兵隊を烈しく日本の男の人が打ち捉えたとき、横におった保安隊の兵隊がこの日本の男の人の腰のところに銃剣でグサリと突き刺したのです。

(中略)

頭皮を剥ぎ、目玉を抉取り、腸を切り刻む

頭の皮を剥いでしまったら、今度は目玉を抉り取るのです。

このときまではまだ日本の男の人は生きていたようですが、この目玉を抉り取られるとき微かに手と足が動いたように見えました。

 

目玉を抉り取ると、今度は男の人の服を全部剥ぎ取りお腹が上になるように倒しました。

そして又学生が青竜刀でこの日本の男の人のお腹を切り裂いたのです。

縦と横にお腹を切り裂くと、そのお腹の中から腸を引き出すのです。

ずるずると腸が出てまいりますと、その腸をどんどん引っ張るのです。

(中略)

青竜刀を持った学生がその日本の男の人の腸を切ったのです。

そしてそれだけではありません。

別の学生に引っ張らせた腸をいくつにもいくつにも切るのです。

 

一尺づつぐらい切り刻んだ学生は細切れの腸を、さっきからじっと見ていた妊婦のところに投げたのです。

 

このお腹に赤ちゃんがいるであろう妊婦は、その自分の主人の腸の一切れが頬にあたると「ヒーッ」と言って気を失ったのです。

 

その姿を見て兵隊や学生達は手を叩いて喜んでいます。

残った腸の細切れを見物していた支那人の方へ二つか三つ投げて来ました。

そしてこれはおいしいぞ、日本人の腸だ、焼いて食べろと申しているのです。

 

通州事件 80年目の真実』監修/藤岡信勝 より

f:id:chaonyanko2:20171127163153p:plain

通州事件の被害者数は、犯行の乱雑さに加え遺体の損傷が激しかったため、調査元にばらつきがある。

8月5日の陸軍省調査によれば、見つかった遺体は184人で、内訳は男性93人、女性57人、性別不明34人となっている。

保護された生存者は134人で「内地人」が77人、「半島人」(朝鮮人)が57人だった。

 

同日の天津日本総領事館北平警察署通州分署の発表では、死者225人となっている。

 

支那駐屯軍司令官・香月清司中将の『支那事変回想録摘記』では、犠牲者は日本人104人と朝鮮人108人の計212人。朝鮮人の大多数は「アヘンの密貿易者および醜業婦にして在住未登録なりしもの」と記されている。

f:id:chaonyanko2:20171127163933j:plain

f:id:chaonyanko2:20171127163638j:plain

 

残酷なシーンが続きますが、実はこの日本人が虐殺された内容が、そのまま「南京大虐殺」という中国のプロパガンダにすり替わって世界遺産に登録されてしまっていますので書かせてもらいました。

 

      つづく

 

最後までお読みくださいまして有難うございます。リンクフリーの記事です。皆様のお役に立てれば幸いです。

 

鬼畜ごときの通州事件(1)

今日もお立ち寄り有難うございます。

 

日本人が絶対に忘れてはならない歴史的事実を私たちは知らないでいます。

戦前の日本人がどんなひどい目にあってきたかを私たちは教えられてきませんでした。

 

通州事件 目撃者の証言』藤岡信勝 編著

f:id:chaonyanko2:20171127140936j:plain

通州事件の蛮行を目撃した日本人女性の証言記録

戦後の日本では、通州事件は長い間隠蔽され、忘れ去られた出来事となってきた。

一方、アジアを侵略した日本軍は「南京大虐殺」などの蛮行をおこなったというストーリーが長い間かたられてきた。

 

だが、最近は、中国こそが日本人に対して残虐な仕打ちをしたのであり、「南京大虐殺」はつくられた戦時プロパガンダに過ぎなかったという、ことの真相が次第に明らかになってきた。

(中略)

「旭軒(飲食店)では四十歳から十七才十八才までぐらいの女性が皆強姦されていました。

それは裸体で陰部を露出したまま射殺されておりました。 特にその中の四、五名の女性は陰部を銃剣で突き刺されていました。

商館や役所に残された日本男子の屍体は殆どすべてが首に縄をつけて引き回した跡があり、血糊は壁に散布し、言語に絶するものでありました。」

(中略)

「近水楼の入り口で女性らしい人の屍体を見ました。(略)その屍体の格好から見ると本人は相当に抵抗したらしく、着物は押し倒されままで剥がされたらしく、上半身も下半身もむき出しになっておりました。

そのむき出しなった裸身を五か所も六か所も銃剣で突き刺しておりました。

そして陰部は刃物でえぐられたので形は残っていませんでしたが、その周辺には血痕が散乱しておりました。

(中略)

最後には四人が折り重なるようにして殺されたのでしょうか、その中の一名だけは上向きにさせられ、その女性の陰部はえぐり取られていました。

帳場と配膳室には男一人と女二人の屍体があったが、三人とも相当戦ったようでありました。

(中略)

男の人は頭が叩き割られ、目玉をくり抜き、その上半身は蜂の巣のようになっておりました。

女性の背中から銃剣で(略)何回も何回も刺されたと思われる傷跡がありました。

(中略)

更に一階の座敷(客室)に女の屍体が二つありました。 二人とも素っ裸で殺されていました。(略)陰部は二人とも切り取られていました。

(中略)

近くにあるカフェーに行ってみると、縄で絞殺されて素っ裸にされた女性数名の屍体があり、それはそこらあたりを縄で引きづり屍体を引きづった跡があり…

(中略)

カフェーの裏側に日本人の家がありましたが、親子二人が殺されていました。 子供は手の指を揃えて切断されておりました。

(中略)

日本人商店では、主人らしい人の屍体が路上に放置してありましたが、胸部の骨が露出し内臓が散乱しておりました。」

(中略)

牛のように鼻に針金を通された子供や、片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦の等の屍体がそここにゴミ箱の中や壕の中から次々に出てきました。

或る飲食店では一家ことごとく強姦されており、全く見るに忍びなかったです。

旭軒では七、八名の女性は全部裸体にされて強姦刺殺されており、陰部に箒を押し込んであるもの、口中に土砂をつめてあるもの、腹を縦に断ち割ってあるものなど、全く見るに耐えなかったのです。

 

東門近くの池には首を縄で縛り、両手を合わせてそれに八番鉄線を貫き通し、一家六人を数珠繋ぎにして引き回された形跡歴然たる屍体がありました。

池の水は血で赤く染まっていたのを目撃しました」

     (中略)

(中国人の)学生はこの娘さんをいきなり道の側に押し倒しました。そして下着を取ってしまいました。 その娘さんは「助けて!」と叫びました。

とそのときです。 一人の日本人の男性がパアッと飛び出して来ました。 そして娘さんの上に覆いかぶさるように身を投げたのです。 おそらくこの娘さんのお父さんだったのでしょう。

 

すると保安隊の兵隊がいきなりこの男の人の頭を銃の台尻で力一杯殴りつけたのです。

何かグシャッというような音が聞こえたように思います。

頭が割られたのです。

(中略)

この男の人を引き離した保安隊は再び銃で頭を殴りつけました。

パーッと辺り一面に何かが飛び散りました。

恐らくこの男の脳漿だったろうと思われます。

 

そして二、三人の学生がこの男の人の身体を殴りつけたり踏みつけたりしていました。

服が破けます。 肌が出ます。 そんなことお構いなしに踏んだり蹴ったりし続けています。

 

そのうち保安隊の兵隊の一人が銃に付けた剣で腹の辺りを突き刺しました。

血がパーッと飛び散ります。

その血はその横に気を失ったように倒されている娘さんの身体の上にも飛び散ったのです。

 

腹を突き刺しただけではまだ足りないと思ったのでしょうか。

今度は胸の辺りを又突き刺します。

それだけで終わるかと思っていたら、まだ足りないのでしょう。

又腹を突きます。 胸を突きます。 何回も何回も突き刺すのです。

 

※下線を引いてあるのは、皆様に覚えていて欲しい部分だからです。

日本人にはない、中国人や朝鮮人に共通した風習です。

 

※閲覧注意

f:id:chaonyanko2:20180927214540p:plain

 

 

     つづく

 

最後までお読みくださいまして有難うございます。

リンクフリーの記事です。皆様のお役に立てれば幸いです。

ソ連に嵌められた日本と蒋介石

今日もお立ち寄り有難うございます。

 

世界って、本当に怖いですね。

 

『マオ 誰も知らなかった毛沢東ユン・チアン&ジョン・ハリディ著

f:id:chaonyanko2:20171122141404j:plain

張作霖爆殺は一般的には日本軍が実行したとされているが、ソ連情報機関の資料から最近明らかになったところによると、実際にはスターリンの命令にもとづいてナウム・エイティンゴン(のちのトロツキー暗殺に関与した人物)が計画し、日本軍の仕業にみせかけたものだという。

 

【戦争の拡大に共産党スパイ】

1937年7月7日、北京近郊の盧溝橋で中国軍と日本軍が衝突した。

(中略)

一般には……日本が上海を攻撃したとされている。

が、これは日本の意図からも真実からも完全に外れている。

日本は長江流域における交戦を望まなかったし、予期もしていなかった。

8月13日の時点でさえ、日本は……この地域に非常に少ない兵力しか配置しておらず……18日、19日には長江のほとりまで追い詰められて河に転落しかねない状況だった。

 

アーベンドは、「交戦地域を華北に限定しようという日本の計画を転覆させる巧妙な計画」の存在に気づいた。

確かに、そうした計画が存在したという点について、アーベントの読みは当たっていた。

アーベントが読み切れなかったのは、計画の首謀者が蒋介石(アーベントはそう思っていた)ではなく、ほぼまちがいなくスターリンだった、という点である。

(中略)

スターリンは国民党軍の中枢で長期にわたって冬眠させておいた共産党スパイをめざめさせ、上海で全面戦争を起こして、日本を広大な中国の中心部に引きずり込む—すなわちソ連から遠ざける—手を打ったものと思われる。

 

「冬眠」から目ざめたスパイは張治中という名の将軍で、京滬警備(南京上海防衛隊)司令官だった。

(中略)

8月9日、上海飛行場で、張治中が自ら精選し中国軍部隊によって日本海軍陸戦部隊の中尉と一等兵が射殺された。

さらに、一人の中国人死刑囚が中国軍の軍服を着せられ、飛行場の門外で射殺された。

日本側が先に発砲したように見せかける工作である。

 

日本側は事件を穏便に処理したいと意向を示したが、張治中は攻撃許可を求めて蒋介石を攻め立てた。

(中略)

14日、中国軍機が日本の旗艦「出雲」を爆撃し、さらに日本海軍陸戦部隊および地上に駐機していた海軍航空機にも爆撃をおこなった。

張治中は総攻撃を命じた。

(中略)

待てども命令が来ないのを見た張治中は、翌日、蒋介石を出し抜いて、日本の戦艦が砲撃し日本軍が中国人に対する攻撃を始めた、と、虚偽の記者発表をおこなった

 

反日感情が高まり、蒋介石は追い詰められた。

翌8月16日、蒋介石はようやく「翌朝払暁を期して総攻撃をおこなう」と命令を出した。

(中略)

蒋介石が全面戦争に追い込まれたのを見て、スターリンは積極的に蒋介石の戦争続行を支援する動きに出た。

(中略)

1937年12月から1939年末までのあいだに、2000人以上のソ連パイロットが中国で戦闘任務につき、日本の航空機約1000機を追撃し、日本占領下の台湾に対する爆撃までおこなった。

(中略)

黒幕として日中全面戦争を実現させたスターリンは、共産党軍に対して積極的に戦争にかかわるよう命令し、中国共産党は国民党に適切に協力して蒋介石に抗日回避の口実をいっさい与えないよう行動すること、と、はっきり指示した。

 

当時、日本はソ連が裏で工作をしているのに気が付いていました。

 

戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫政治 

神戸新聞1937年7.19(昭和12年

北支事変と対支軍援助か

老獪なるスターリンの戦術

注目さるるソ連の動向

f:id:chaonyanko2:20171122152631j:plain

 

大阪毎日新聞1937年9.16(昭和12年

国民政府共産化

【左翼財政々策採用】

f:id:chaonyanko2:20171122152917j:plain

 

国民新聞1937年9.25(昭和12年

ソ支相互援助

全面的密約内容判明す

f:id:chaonyanko2:20171122153204j:plain

 

大阪毎日新聞1937年9.24 (昭和12年

露支密約成立

対日共同防衛陣を張り

防共協定破壊に務む

f:id:chaonyanko2:20171122153523j:plain

 

現在、中国は「日本軍が中国を侵略した」と言い張っていますが、中国共産党はこの事実を隠しているわけです。

 

最後までお読みくださいまして有難うございます。

リンクフリーの記事です。 皆様のお役に立てれば幸いです。

朝日新聞1941年 ソ連を礼賛していた。

今日もお立ち寄り有難うございます。

さて、朝日新聞が人類史上最悪の共産主義国家の本家:ソ連を礼賛していたことをご存知でしょうか。

 

新聞記事文庫:大阪朝日1941.9.7

『戦う「欧州の銃後」』日曜特輯

f:id:chaonyanko2:20171115154116j:plain

f:id:chaonyanko2:20171121162957j:plain

ソ連 貴重な資本は人 保護の費用は惜しまぬ

【モスクワで畑中特派員五日発】先週の(※1)プラウダイズヴェネチア両紙社説は戦線で傷ついた勇士ならびにその家族の保護につきしばしば論じていたが、これは本問題にソ連がいかに多大の注目を払っているかを証明される、ソ連は対独戦に数百万を動員している

(中略)

第一—家族中に労働に従事し得るもの一人もなきとき、毎月右労働不能者一名につき百ルーブル、二名につき百五十ルーブル、三名もしくはそれ以上に二百ルーブルが交付される

△第二—家族中に労働不能者三名あるいは三名以上数え労働可能者一名の場合は毎月百五十ルーブル交付される

△第三—家族中に十六歳以下の児童二名を数え労働可能なるもの一名あるときは毎月百ルーブル交付される

△第四—右の額は都市居住者に対してのみ適用され地方居住者はその半額を交付されるものとす

(中略)

プラウダ紙によれば「社会保険局モスクワ支部の斡旋ですでに四百名以上の主婦が仕事を得た、さらに託児所は新たに数千名の児童の収容を引き受け各所に無料牛乳配給所が設立された」という、ソ連政府はまた傷病兵にもあたたかい保証を加え「ソ連では人はもっとも貴重な資本である」といい…

(※1)プラウダ=1912年にレーニンにより創刊された共産党機関紙

 

朝日新聞は、他紙がソ連の危険性を説いている中で、突如としてソ連社会主義が素晴らしいという内容で報じています。

しかし…実態は、恐怖、公開裁判、密告、大量虐殺…侵略、餓死…

人が資本ではなく、人の命を紙切れほどの重さも感じていなかったのです。

この世の地獄だったのですが…

 

[社会主義の20世紀」スターリン恐怖政治、公開裁判、粛清、見世物裁判

huuten no toraさん からお借り致しました。

www.youtube.com

 

この記事が出た後に朝日新聞記者:尾崎秀実ゾルゲ事件で逮捕されます。

f:id:chaonyanko2:20171117124706j:plain

※当時、尾崎秀実は評論活動をしていた当時、「最も進歩的な愛国者」「支那問題の権威」「優れた政治評論家」などと評価され、評論家としての権威・評判は共産主義が抑圧されていた言論状況のもとでも高いものであった。(『尾崎秀美—Wikipedia 』より)

 

 

そして、近衛内閣も解散しました。

なぜなら、近衛内閣の政策ブレーン(昭和研究会、朝飯会)は共産主義者で固められていて、その中に尾崎秀実、西園寺公一犬養健が入っていたからです。

同時に「昭和研究会」「朝飯会」とメンバーが重なっていた「企画院」も検挙されました。

 

しかしながら、(※2)近衛文麿自身も共産主義者河上肇に教えを請うほどのマルキスト共産主義者)であったことは確かなことです。

(※2)近衛文麿の孫=細川護熙元朝日新聞記者、非自民・非共産連立政権の首相)

 

河上肇Wikipedia より

f:id:chaonyanko2:20171121195531j:plain

「国際共産党」=コミンテルン

 日本共産党コミンテルン日本支部

 

平沼騏一郎は、大政翼賛会などを「アカ」として非難していました。

全くその通りだったんですね。

また、小泉純也は「昭和研究会」の代表である後藤隆之介が皇軍を批判し、共産軍に同調していると非難しています。

全くその通りだったんですね。

 

しかし、時はすでに遅し…

近衛内閣はソ連と「日ソ中立条約」を結び、支那(現・中国と呼称)大陸の南進へと政策決定されたのです。

近衛内閣の時に決定された政策で、日本は泥沼の戦争へと巻き込まれていったのです。

つまり、先の大戦共産主義者が招いた大戦だともいえるのです。

 

『近衛上奏文』Wikipedia より 

なお、ゾルゲ事件で逮捕された、尾崎秀実は、「敗戦革命論」に沿う形で日中戦争を強力に推進する論陣を張った近衛のブレーンでコミンテルン工作員であり、また、近衛自身も首相として、1938年(昭和13年)に中国国民党政府との和平交渉を打ち切り、(略)日中戦争の拡大と長期化、日米戦争を導いたことについての重大な責任を負っている。 

ただし、日米戦争はチャーチルルーズベルト会談ですすめられた戦争でした。

 

 

最後までお付き合いくださいまして有難うございます。

リンクフリーの記事です。皆様のお役に立てれば幸いです。

朝日新聞1941年 ナチス、ヒトラー、ゲーリングを礼賛していた。

今日もお立ち寄り有難うございます。

 

ヤフーニュース『朝日、ナチスで安倍叩きの愚』というタイトルの記事を読みました。

  ↓

headlines.yahoo.co.jp

f:id:chaonyanko2:20171115153019j:plain

 ・朝日新聞のコラムが、ドイツの「国家元帥ゲーリング」を安倍首相に重ねて批判を展開。

 

・安倍首相は「票が増える」とみて実在しない「北朝鮮の脅威」を訴えた、との批判であった。

   (中略)

朝日新聞がその独特な主張を発信する際にはナチスをよく引用することは、すでに広く知られている。

 

 朝日新聞は、過去にナチスヒトラーゲーリングを礼賛した記事を書いていたことを忘れたのでしょうか?

新聞記事文庫:大阪朝日新聞1941年9.7(昭和16年

 

f:id:chaonyanko2:20171115154116j:plain

 戦う「欧州の銃後」 日曜特輯

児童の保護—ナチスは恐ろしく児童好きである、ヒトラー総統、ゲーリング国家元帥の子供好きなのは有名であるが…

 

過去には、ナチスヒトラーゲーリングは子供好きと好意的に評してしたんですけどね…

 

さらには、「ドイツ子供は戦争太り 防空壕にもお菓子の用意」などと、ドイツの子供は戦中でも食べ物には困らないほどの福祉が充実されていると記事に書いています。

f:id:chaonyanko2:20171115154736j:plain

 

※この記事が出た後の1941年10月15日に大阪朝日新聞記者でコミンテルン工作員尾崎秀実(コードネーム:インベスト)がゾルゲと共に逮捕されました。

 

GHQ知られざる諜報戦』C.A.ウイロビー著 より

f:id:chaonyanko2:20171117124802j:plain

 

コミンテルン共産主義インターナショナル)の工作員

朝日新聞記者:尾崎秀実

f:id:chaonyanko2:20171117124706j:plain

 

リヒャルト・ゾルゲ: ソビエト連邦のスパイ

f:id:chaonyanko2:20171117125442j:plain

 

それにしてもですよ…

ヒトラーよりも朝日が大好きなスターリン毛沢東の方が、多くの犯罪(大虐殺)をやっているんですが…

人類の最大の敵は毛沢東スターリンのような人物ではないでしょうか。

 

大虐殺を行った歴史上の支配者【ランキング】

matome.naver.jp

 

第一位 毛沢東(中国)7800万人

f:id:chaonyanko2:20171115160544j:plain

 

第2位 ヨシフ・スターリン (ソ連

f:id:chaonyanko2:20171115161010j:plain

 ※因みに、民進党の「有田芳生」議員の名前は、日本共産党員だった両親が「ヨシフ・スターリン」から名前をとって名付けられたそうです。

 

第3位 アドルフ・ヒトラー (ドイツ) 1700万人

f:id:chaonyanko2:20171115161445j:plain

 

『これでも朝日新聞を読みますか❓』山際澄夫

f:id:chaonyanko2:20171115161645j:plain

 朝日新聞はもともと、毛沢東の中国、金日成北朝鮮スターリンソ連、それにポルポトカンボジアに対する著しい礼賛報道で知られる。

 

 これらの国ではそれぞれ人類史上に例を見ない自国民に対する大量虐殺を行ったことが後に明らかになっているが、朝日新聞紙面では毛沢東が発動した文化大革命を「近代化への模索」(※3)(1967年)と論じたり、スターリンを「子供好きなおじさん」(1953年3月7日夕刊)、カンボジアポルポトを「アジア的な優しさに溢れている」(1975年4月19日夕刊)と報じたりした。

 

 そして金日成北朝鮮は「ばく進する馬」(1959年12月25日朝刊)などと報じて、朝鮮総連の帰国運動に際しても「なんといっても『完全就職、生活保障』(1960年2月26日朝刊)と、朝鮮総連の「(北朝鮮は)地上の楽園」という宣伝に加担して、多くの在日を日本人妻とともに帰国させ、新たな悲劇を生んだわけである。

 

 だから犯罪国家にも優しく立ち向かえというのは、要するにかつての「心の祖国」に対する親近感の屈折した表れに過ぎないのである。

 

 朝日新聞のもうひとつの特徴が国家の否定である。

日本の戦後占領軍の指令によって日本という国家、歴史をすべて悪いものだとしてスタートした。(※1)

 

この「戦後精神」(※2)を誰よりも代弁してきたのが朝日新聞であった。

 

(※1)

ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム』Wikipedia

GHQの「民間情報教育局」が担当

f:id:chaonyanko2:20171117130103j:plain

 

 

(※2)

日本解放第二期工作要綱 中国共産党

4-1.対極右団体工作

敗戦日本を米帝が独占占領したことは悪質極まる罪悪であるが、米帝が日本の教育理念、制度徹底的に破壊し、国家・民族を口にすることが、あの悲惨な敗戦を齎した軍国主義に直結するものであると教育せしめたことは高く評価されねばならない。

 

(※3)

朝日新聞が応援していた民主党(現、民進党&立憲民主党)の仙谷由人が「事業仕分け」を「文化大革命だ」と嬉々とした顔で言ってましたね。

文化大革命で、死者、被害者1000万人以上はいるといわれている、いわゆる大虐殺が行われたのですが…

 

『マオ 誰も知らなかった毛沢東 下』ユン・チアン&ジョン・ハリディ著より

f:id:chaonyanko2:20171117131652j:plain

 

 

中国の報道官が「日本は戦後の秩序に従うべき」とよく口にしていますね。

日本と交戦したことがない中国共産党が、上から目線で偉そうに言ってるのをみると気分が悪くなります。

 

 

最後までお読みくださいまして有難うございます。

リンクフリーの記事です。皆様のお役に立てれば幸いです。

朝鮮戦争は金日成、毛沢東、スターリンが始めた戦争だった

今日もお立ち寄り有難うございます。

さて、日本の左翼陣営では「朝鮮戦争」の位置づけを「米ソ冷戦の代理戦争」と言ってるようですが、共産主義者のお得意の嘘なんですよ。

騙されないようにしましょうね。

 

『マオ 誰も知らなかった毛沢東 下』ユン・チアン&ジョン・ハリディ著

f:id:chaonyanko2:20171111173222j:plain

1949年3月、毛沢東率いる人民解放軍が勝利に向かっているとき、金日成はモスクワへ行き、大韓民国攻略を援助してくれるようスターリンの説得を試みた。

スターリンの返事は「ノー」だった。

アメリカとの対決に発展する可能性があるからだ。

 

そこで金日成毛沢東に乗り替えることにして、1ヶ月後に国防相代理を中国へ派遣した。

毛沢東金日成に対する援助を確約し、ピョンヤンの南攻を支援するにやぶさかではないが、自分が中国全土を制圧するまでいま少し待ってほしい、「北朝鮮政府が南に対する全面攻撃を1950年前半に予定してくれれば、はるかに好都合だ…」と答えた。

 

そして、「必要ならば、ひそかに中国兵を差し向けることも可能だ」と、わざわざ付け加えた。

朝鮮人と中国人はどちらも髪が黒いから、アメリカ人は見分けがつかず「気づかないだろう」、というのが毛沢東の考え方だった。

 

『中国人民志願軍』Wikipedeiaより

f:id:chaonyanko2:20171111181012j:plain

 

すでに1949年5月の時点で、毛沢東金日成に対して南へ侵攻してアメリカと対決するようけしかけ、中国からの人的支援を持ちかけていたことになる。

この段階では、毛沢東は中国人兵士を朝鮮人に見せかけてひそかに北朝鮮へ送り込むことを考えており、アメリカと正面から衝突するつもりはなかった。

 

しかし、ソ連訪問中に毛沢東は考えを変え、アメリカと正面から対決する決意を固めた。 

中国を世界一流の軍事大国にするために必要な援助をスターリンから引き出す方法はこれしかない、と考えたからだ。

中国がスターリンに代わってアメリカと戦い、それと引き換えにソ連が技術と装備を提供する—毛沢東が考えたのは、煎じ詰めればこういう取引だった。

(中略)

中国と北朝鮮が手を結んで朝鮮戦争を戦うことになれば、ソ連にとって数えきれないほどの利点がある。

 

ソ連製の新兵器、とくにミグ戦闘機を実践でテストしてみることができるし、アメリカの技術を見ることもできる。

さらに、アメリカの技術を一部入手できるし、アメリカに関する貴重な情報も得られる。

(中略)

しかし、スターリンにとって朝鮮戦争の最大のうま味は、毛沢東が中国の膨大な人的資源を使って多数のアメリカ兵を殺すか釘付けにしてくれれば軍事バランスがスターリンに有利に傾き、その結果、陰謀が実現可能になるかもしれない、ということだった。

 

スターリンの陰謀とは、ドイツ、スペイン、イタリアをはじめとするヨーロッパ諸国を占領することだった。

朝鮮戦争のあいだにスターリンが検討したシナリオのひとつは、日本と朝鮮のあいだの公海上で(1950年9月、インチョンに向かっていた)アメリカ艦隊を空爆するというものだった。

 

 

実際、スターリンは1950年10月10日、毛沢東に対して、この時期は千載一遇のチャンスである、なぜならドイツと日本という有力な資本主義国二ヵ国も軍事的に動けない状態にあるからだ、と発言している

 (中略)

毛沢東には、自分がアメリカに負けるはずがない、という確信があった。

中国には何百万もの兵隊を使い捨てにできるという基本的な強みがあるからだ。

 

ちょうど厄介払いしたいと思っている部隊もあった—朝鮮戦争は、国民党部隊の敗残兵を戦場に送って始末する恰好の機会になるだろう。

彼らは内戦末期に部隊ごとまとまって投降してきた国民党軍兵士で、毛沢東は意図的に彼らを朝鮮の戦場に送り込んだ。

 

万が一国連軍が始末をつけてくれなかった場合に備えて、後方には特別の処刑部隊が待機して戦線から逃げ戻ってきた兵士たちを始末することになっていた。

 

『中国人民志願兵』Wikipedia より

f:id:chaonyanko2:20171111182321j:plain

 

 

 『共産主義黒書 —犯罪・テロル・抑圧—<コミンテルン・アジア篇>』

ステファヌ・クルトワ&ジャン=ルイ・パネ&ジャン=ルイ・マルゴラン著

f:id:chaonyanko2:20171111183356j:plain

1950年6月25日、計画的な侵入作戦が実行され、北朝鮮軍部隊は奇襲的に南を侵略した。 これが恐るべき戦争の始まりだった。

この戦争で、朝鮮の全住民のうち50万人を超える死者を出すことになる。

マッカーサー将軍率いる国連軍部隊によって北朝鮮が全面敗北の危機に瀕した時、彼らを援助にやってきた中国人兵士のなかで、約40万人の死者とそれをやや超える負傷者が出た。

北朝鮮軍兵士の死者は少なくとも20万人、韓国軍兵士の死者は5万人に達し、アメリカ軍の死者は5万人を超え、さらに数百万人の住民が家を失った。

国連軍のフランス軍大隊は約300人の死者と800人の負傷者を数えた。

(中略)

列挙した死傷者の苦しみだけでなく、たとえば戦争捕虜がこうむった苦しみ(6000人のアメリカ人兵士と、それとほぼ同数の、大部分は韓国人兵士からなる、米国以外の国の兵士とが拘留中に死んだ)も、現地のソウルにとどまり、北朝鮮軍部隊により逮捕され、ついで収容所に送られたフランスやイギリスの外交官スタッフや、同様に収容所送りとなった、韓国で働いていた宣教師の長い苦難の道のりもまた、共産主義の責に帰すべきものである。

 

『読売新聞 2007年4月』よりf:id:chaonyanko2:20171111185711j:plain

 

 

大東亜戦争第二次世界大戦)の終戦時、「日ソ中立条約」を破ったソ連が、武装解除した日本軍、民間人を襲い、約76万人がシベリア強制収容所に強制連行されました。

『読売新聞』より

f:id:chaonyanko2:20171111190507j:plain

 

『異国の丘』とソ連・日本共産党(第1部)blog より

f:id:chaonyanko2:20171111190632j:plain

 

今も日本の左翼陣営と、韓国の人たちは、北朝鮮や中国、旧ソ連を持ち上げて、日本を責めていますが、この事実を知らない? 知らなかった? とでも言うのでしょうか?

 

拙い長文に最後までお付き合いくださいまして有難うございます。

リンクフリーの記事です。 皆様のお役に立てば幸いです。

日本共産党は朝鮮戦争に参戦していた。

お忙しい中、当ブログにお立ち寄りくださいまして有難うございます。

 

皆さんは、「反戦」を謳っている日本共産党が「朝鮮戦争」に参戦していたことをご存知でしょうか?

新左翼とは何だったのか』荒 岱介著 より引用

f:id:chaonyanko2:20171107122159j:plain

日本共産党が体験した熾烈な武装闘争

 

 朝鮮戦争休戦会談が開城ではじまるのは1951年7月です。 この情勢下、日本共産党は51年2月、第4回全国協議会(四全協)で武装闘争方針を提起しました。

「今日の植民地・従属国の解放闘争の主要な形態は武装闘争である」という、当時の中華人民共和国副主席 劉少奇演説に従ったものといわれますが、日共主流(所感派)は強く中国共産党の影響を受けていたのです。

 

劉少奇コミンテルンが開催した『極東諸民族大会(極東の共産主義的・革命的組織の第一1回大会)』に出席していました。

古参党員ですが、文化大革命毛沢東に粛清されました。

f:id:chaonyanko2:20171107124345j:plain

『マオ 誰も知らなかった毛沢東ユン・チアン  ジョン・ハリティ著より引用

 

朝鮮総連金賛汀 著 より引用

f:id:chaonyanko2:20171107124844j:plain

日本共産党は1951年1月2日には公然と武力革命を活動方針とする極左路線を打ち出した。

(中略)

朝鮮人日本共産党員が中核であった民戦は日本の左翼勢力に歩調を合わせ、朝鮮戦争反対、吉田内閣打倒を方針に掲げ過激な運動を展開した。

こうして講和条約締結後、左翼勢力と日本政府の最大の衝突が1952年5月1日のメーデーの日に起きたのである。

 

この日のメーデーを、民戦は「同胞総決起月間」の頂点位置付け、全国のメーデー会場に14万7000人の在日同胞を動員した。

東京ではデモが禁止されていた皇居広場に日本人と朝鮮人のデモ隊が押し寄せ、朝鮮人北朝鮮国旗を押したててデモを敢行した。

(中略)

私の知人でこの時期、朝鮮高校に通学していた女性がいる。彼女は当時、日本政府による学校閉鎖反対運動、朝鮮戦争反対運動などで、学校での授業よりも街頭デモや反対運動に参加することが多かったと回想している。

 

街頭闘争の時は、買い物籠に警官隊に投げつける火炎瓶を隠し持って運搬する日が毎日のように続いたという。

 

※血のメーデー

『昭和毎日』昭和のニュース より引用

f:id:chaonyanko2:20171107131535j:plain

 

画像  お借りしました。

f:id:chaonyanko2:20171107131722j:plain

 

※学校閉鎖反対運動=『阪神教育事件在日朝鮮人日本共産党による民族教育闘争

阪神教育事件Wikipedia より引用

f:id:chaonyanko2:20171107130744j:plain

 

 

 

警察庁HP

『暴力革命の方針を堅持する日本共産党』より引用

f:id:chaonyanko2:20171107133239j:plain

2「51年綱領」に基づく暴力的破壊活動を展開

 日本共産党は、同党の革命路線についてコミンフォルムから批判を受け、昭和26年10月の第5回全国協議会において、「日本の解放と民主的変革を、平和の手段によって達成しうると考えるのはまちがいである」とする「51年綱領」と、「われわれは、武装の準備と行動を開始しなければならない」とする「軍事方針」を決定しました。

 

 

日本共産党は「安倍政権は日本を戦争が出来る国にしている」と「安保法制」に反対していますが、現在のままでも北朝鮮からミサイルが日本に向かって飛んでくるのはどう説明するのでしょうか?

 

日本共産党北朝鮮と血を分けた兄弟なんだから、北朝鮮反戦の話し合いをしてもいいのではないでしょうか?

挑発をしてきているのは、北朝鮮なのに、どうして安倍首相を責めてばかりいるのでしょうか?

反戦」を謳いながら、朝鮮民主主義人民共和国北朝鮮)による大韓民国(韓国)侵略戦争に加担したのは「反戦」の精神に反する行為だと思うのですが…

 

日本共産党の党員の皆さん、支持者の皆さん、説明していただけませんでしょうか?

 

         つづく

 

最後までお読みくださいまして有難うございます。

この記事はリンクフリーです。皆様のお役に立てれば幸いです。