ロシアがどの口で丸山氏を批判するのか!

今日もお立ち寄り有難うございます。

 

朝日新聞 2019.5.17

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日本維新の会片山虎之助共同代表は17日、ロシア大使館でガルージン駐日大使と会談し、丸山穂高衆議院(維新が除名)が北方領土返還に関連して戦争に言及した問題について陳謝した。ガルージン氏は「戦争という言葉、ロシアの混乱を望むようなことは非常に不快」と述べたという。 以下略

 

ちょっと待ってくださいよ!

日本が敗戦濃い時期に、突如、「日ソ中立(不戦)条約」を破棄して満州樺太、北海道まで軍事進攻してきたのは、あなた達ロシア(旧ソ連)ではありませんか!

どの口で「不快」だなんて言えたのでしょうか!

 

昭和毎日 昭和のニュース

ソ連が対日宣戦布告 1945年8月8日】

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ソ連が日本に宣戦を布告、満州(※現中国東北部)や朝鮮などに進撃した。

日本とソ連は1941年4月、中立条約に調印して太平洋戦争(日本側:大東亜戦争)ぼっ発以降も中立関係を維持した。

しかし、45年2月のヤルタ会談で、ソ連は対日参戦することをアメリカとイギリスに確約、条約を一方的に破棄したソ連の参戦により満州の日本開拓民約8万3000人が死亡、数千の子供が「孤児」として大陸に残された。

 

【八月十五日からの戦争 日本人が知らない満州国の悲劇「通化事件」】

加藤康男

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関東軍総司令部の時計が、8月9日午前1時を少し回った頃である。

 ソ連軍は突如、対日宣戦を決定、奇襲攻撃が開始された。夜間の非情当直に当たっていた作戦班や情報班の幕僚たちの電話が一斉に鳴った。

 

「牡丹江の第一報でありますッ。午前1時、牡丹江はソ連空爆を受けつつあり

「東寧、綏芬河正面の敵機甲部隊は攻撃を開始せり」

 

 非番だった作戦班長(第一課)の草地貞吾(大佐・陸士39期)の自宅官舎にも、当直から直ちに通報が届いた。

「いよいよ来たか。第一報ではまだ分らんが、おそらく敵は全面侵攻を開始したのではあるまいか」

(中略)

 いっとき最強を誇った関東軍も、いまは見る影もない。案の定、8月9日のソ連の参戦直後、満州北東部入植地域では、目を覆うばかりの悲惨な事件が次々発生した。

 代表的な例としては、麻山事件(8月12日、400名余が集団自決に追い込まれた)や葛根廟事件(8月14日、ソ連軍戦車14台が約1,100名を虐殺)などあったが、この段階で総司令部に詳しい情報はまだ届いていない。

いずれも退却する関東軍のあとを追う途上、ソ連軍の襲撃に遭遇して死亡したもので、ただ悲惨の二文字に尽きる。…

 

ソ連満州に侵攻した夏】半藤一利

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>8月14日の昼近くである。東京で、天皇が「国民の生命を助けたい」と23人の男を前に降伏の決断を下したとき、ほとんど時を同じくしている。

歴史とはなんとも無残なことをする。

 

 飢えと疲労で何日も歩き続けてきた人びとは、中型戦車14輌に蹴散らされ、轢き潰された。 最後尾の興安小学校の児童たちが戦車の轟音を最初に聞いたときには、もう殺戮がはじまっていたのである。

遮蔽物がなにもない草原は最高の射場と化した。向かいの丘からそれを眺めていたソ連兵士は、

まるでマッチの軸がはねられ潰されるようであった

と証言している、という。

 

 殺戮はそれだけではすまない。 後続の自動車隊から降りてきたソ連兵が、幼児といえども情け容赦なく、それが既に冷たい屍になっていようが見境なく、マンドリン自動小銃)を射ちこみ銃剣で止めを刺した。

 先を急ぐソ連軍機甲部隊にとっては、とぼとぼ動く難民の列は前進を妨げる障害物以外のなにものでもなかったのか。

 

 当時小学校下級生で、幸運にも生き残った田中忍という女性の手記がある。ほかにも

いくつかの生存者の回想が残されているが、ここではこの手記を長く引用する。

「誰も口を利かない長い行列は、丘から丘につづいて、その先は見えない。 食糧をつんだトラックと馬車が何台も通り過ぎ、その上に日焼けした老人とおなかの大きい人が乗っていた。

 母は背中に、もうすぐ4歳になる弟をおんぶし、私は2人の弟の手を引いて、母のあとをいそいだ。 焼けつくような太陽が照りつけて、道端に捨てられた荷物も段々とふえていった。 突然『ビューッ』と弾丸の音がした。 父が大声で『かくれろ!!』と云ったので、皆で溝の中に身を伏せた。 銃声と戦車の音がきびしく、上の方で何がおこっているのかわからない。 その時父が立ち上がって動こうとした。

『お父さん、動いてはダメ』と私は父の足をつかんだ。 だが父はどこかに行ったまま、私たちの所には帰ってこなかった。

 

 銃声はひどくどの位時間がたったのかわからない。男の人が『集まれ‼』と号令をかけた。 

 私たち親子5人が歩いて行った先には、行列の3分の1位の人がいたように思った。

そこに銃声が近づき、自動小銃を持ったソ連兵にとり囲まれた。

自動小銃が鳴り、護身用に持ってきた手榴弾があちこちではじけ、母と9歳の弟は息が切れた。 私も腰から血をふき前に倒れた。

 『お姉ちゃん』と妹と弟が大粒の涙をこぼしながら、血の海の中を這ってきた」

 

 ソ連軍が去ったあと葛根廟の丘を、やがて赤い夕陽が、なぶり殺しにされた千数百人の鮮血で染めたかのように赤く照らし、いつものように沈んでいったという。

(中略)

 それがあとにつづく悲劇の前ぶれのごとくに、市内の治安はその日を境に混乱し、乱れに乱れていった。ソ連兵の乱暴狼藉はいまや目に余るものとなった。

 赤旗や青天白日旗をかざした一部の中国人満州人)も反日行動をあらわにしはじめた。

 かれらは争うようにして、日本人を襲った。

殺人、婦女強姦、略奪、暴行はひんぴんとして行われだした。

(中略)

ソ連兵は時計と万年筆を強奪するから外出のときに持ち歩くな、という注意もいち早く伝わった。 それと知らず、白昼路上で拳銃を片手のソ連兵によびとめられ、

「チャスイ、チャスイ(時計)」

と、腕時計をひったくられる日本人があとを絶たなかった、しかもそのソ連兵の腕には10数個腕時計が誇らしげにはめられている。

 

 街頭ばかりではなく、日本人住宅に押し入って手当たり次第に略奪するもののなかには、将校を先頭の部隊ぐるみのものもある。 それも、ソ連軍はどんどん新京に入り、一泊してまた南へ下っていく。 新規の侵入者が、新しい立場で押し入ってくる。

腕時計や万年筆はもとより、布地、長靴などを、かれらは先を争うようにして奪いとっていった。

 こうしたソ連兵の暴行、略奪は新京にかぎったことではない。 満州のいたるところの都市でも、容赦なく行われている。

 

 8月18日、ハルビン市の中心の大直街をソ連軍の巨大戦車数十輌が行進した。 この日からこの市もソ連兵による強奪、略奪、暴行、強姦の街と化した。

当時、ハルビンの日本人国民学校5年生であった俳優の宝田明がそのときの体験を、1998年11月28日付の毎日新聞に語っている。

 

女性と子供は丸刈りになり、日中でも一人で外出することは禁止になった。 しかし、白昼、買い物に出かけた近所の奥さんが、マンドリンと呼ばれた自動小銃を抱えたソ連兵に捕まり、社宅裏の空き地で強姦されるのを目の当たりにした。/ ソ連兵は、夜はもちろん日中も社宅を襲った。 時計、ラジオを略奪していった。狙うのは日本人の家だけ。

 マンドリンを突きつけられれば、なすがまま、ただ出ていくのを待つしかなかったという。 蓄えてあった食料も根こそぎ持っていかれた。/街に出て稼ぐしかなかった。ソ連兵相手の靴磨きを始めた。

(中略)

…そのころ、ハルビンの街に、奥地の開拓団の日本人が、引き揚げの指示を待ちきれず20人、30人の集団でやって来た。毛布やリュックサックを背負い、子供の手を引いて、『先に行かせていただきます。お先に』。そう言いながら、徒歩で南に向かった。/『あの人たちの大部分が、途中で殺されたり、畑の中を逃げまどったりしたんです。そして子供をどこかに預けていったんです』/…『近いうちに、また連れ戻しにきますから』。そう言って、子供を預ける親がたくさんいた。『お礼』にジャガイモをもらって。『親は飢えをしのぐ。子供も殺すより預けた方がいい。それで置いてきた子がたくさんいた。かわいそうで……』」

(中略)

 それはある意味では、対ドイツ戦線での習慣を満州にまでもちこんできたものであったかもしれない。 ドイツでは、老女から4歳の子供にいたるまで、エルベ川の東方で暴行されずに残ったものはほとんどいない、といわれている。

 あるロシア人将校は、一週間のうちに少なくとも250人に暴行されたドイツ人少女に出会い さすがに愕然とした、という記録が残されている。

 

 ドイツ戦線で、そして満州で、ソ連軍将校の素質の悪さについては、他にもさまざまな書物がふれている。しかもその残虐行為は上からの指示によるとも伝えられている。

 スターリンの娘スペトラーナもこれを裏づける証言をしている。

 それによると、スターリンはヨーロッパを荒廃させることを奨励し、それに喜びを感じていた。 その意図には、赤軍の暴虐さを許すことで敵国の嫌悪を買い、親しくなることで堕落しないようにしむけた、といった複雑性を含んでいたという。

 

 シベリアのラーゲリで、作業係のソ連軍の上級中尉が酔っぱらって語った証言を書きとめている日本人もいる。

 それによると、スターリングラード防衛戦で有名をはせたロコフスキー元帥は、囚人のなかから選ばれた軍人であるという。

「彼はその部隊を全部囚人仲間から編制した。ウォトカを飲み放題に飲ませた。無鉄砲な囚人たちが酒の勢いで猛攻を重ねた」。そしてその軍隊が満州に送られてきたのであるという。

 

 しかも、ソ連戦車がドイツの民間人や避難民や婦女子を攻撃し、轢き殺しているという報告がスターリンのもとにとどいたとき、この独裁者は上機嫌でいった。

 「われわれはわが軍の兵士たちにあまりにも沢山の説教をしてきた。少しくらいは自主性を発揮させてやれ

 つまりスターリン大元帥を頂点として、上級指揮者の黙認のもとに、ヨーロッパと同様に満州でも略奪や暴行が行われていたとみられるのである。

 それも戦争一般にありがちの偶発的、個別的な現象ではなく、意図的かつ組織的な犯行である。

(中略)

 ある百貨店がソ連軍部隊に襲われ、目ぼしいものはみなトラックに運ばれていった。

そのあと中国人(満州人)が蟻のように集まり、残った半端ものにむらがる。と、待ち構えていたソ連兵が空砲で威嚇射撃をして、かれらを追い払う。

 この場面をソ連のカメラマンが丹念に撮影し、ソ連兵が必死に略奪を防止している、という証拠をつくるのである。

 略奪したのは中国人であり、ソ連兵ではない。 まさに合法的な略奪というほかない。 以下略

 

長々と引用しましたが、裏から参入したソ連(現ロシア)の卑怯さ、残虐さ、狡猾さを知っていただきたいと思います。

 

しかし…なぜだか日本ではこの旧ソ連のした犯罪を報道しません。

これだけ多くの邦人犠牲者を出しながら、沈黙したままです。

どういうことでしょうかね?

 

それにしても…朝日新聞は、この恐ろしいスターリンを…

【これでも朝日新聞を読みますか?】山際澄夫

 

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> 朝日新聞はもともと、毛沢東の中国、金日成北朝鮮スターリンソ連、それにポルポトカンボジアに対する著しい礼賛報道で知られる。

 これらの国ではそれぞれ人類史に例を見ない自国民に対する大量虐殺を行ったことが後になって明らかになっているが、朝日新聞紙面では毛沢東が発動した文化大革命を「近代化への模索」(1967年8月11日)と論じたり、スターリンを「子共好きなおじさん」(1953年3月7日夕刊)、カンボジアポルポトを「アジア的な優しさに溢れている」(1975年4月19日夕刊)と報じたりした。 以下略

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※画像はお借りしました。

 

日本共産党も…

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>「平和と解放のみちびきの星」

 「スターリンはわれらの胸に」

1953年4月

 

もうね…朝日新聞も、日本共産党も…狂ってますね!

この時期には、まだ満州から引揚げてきた方々も生存していたし、シベリア抑留された兵士たちの家族も沢山いらしたわけです。

どういう神経で「スターリン礼賛」が出来たのでしょうか?

 

最後までお読みくださいまして有難うございます。

誤字、脱字がございましたらご容赦くださいませ。<m(__)m>

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