「和夫一家殺害事件」に見る、韓国の中国(支那)属邦時代の風習

今日もお立ち寄り有難うございます。

 

前回は、「韓国」が反日を叫ぶ際に、必ずと言ってよいほど「日本人の残虐性」を訴えていますが、それは、「韓国に残る中国の属邦時代の名残り」であることを紹介しました。

暗黒半島 韓国の真実 - 姥桜

 

「中国の正体」を理解すれば、「韓国(朝鮮)」が理解できます。

 

親日派のための弁明②】金完燮

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>私は生粋の韓国人である。 でも、韓国人というものがあまりにも情けなく、えいっと死んでしまいたくなるときがある。

 なぜ日本の蛮行は暴いても、自分たちの汚い利己心と下品な鍋根性(熱しやすく冷めやすい)には目をつぶるのか?

 

 日帝時代、朝鮮に移住した日本人の中には立派な人も多かった。ところが和夫一家殺害事件のように、韓国人は自分の間違いを、日本がやったから自分たちもやったといい、事件をうやむやにしようとしている。

 和夫一家の亡骸は釜山に大事に改葬され、日本人の墓参りは今も絶えないという。

 

 和夫は日帝時代によく見られた、慶尚道地域の日本人地主であった。地主とはいっても、和夫一家は日本政府の朝鮮移住政策によって望みもしない朝鮮生活を始めることになったのだ。 公務員だった和夫は、政府の命令でしかたなく朝鮮に赴任したのである。 そのころの日本は一種の軍事独裁体制で、政府の命令に従わなければすぐに売国奴扱いされそうな雰囲気があったという。

 

 当時、朝鮮にいた日本人地主には、小作料を法令の規定以上取り立てる、不届きな輩もいた。 しかし、普段から人情に厚かった和夫は、小作料を収穫全体の十分の一しかとらず、村人たちを家族のように考え、喜びも悲しみもともにした。

 生活に困らなかったため、総督府の法令で規定された小作料の中から最低限しかとらなかった。 貧しい小作人が食べ物がないと哀訴すると喜んで食べ物を分けてあげ、村で誰かが亡くなると、家族全員がかけつけて食事の用意はもちろん、自ら慟哭までして悲しみを分け合った。

このように和夫は人間への暖かい愛情をもった人であった。

 

 また、和夫の家族は周囲に孤児がいると連れて帰って面倒をみていたが、一人、二人と増えていき、和夫夫婦はこの孤児たちを家族のように愛し、自ら喜んでその子たちの父、母と名乗った。 和夫一家は日ごろから朝鮮人を愛し、日本の軍国主義を批判していた。

 だが、天皇の降伏宣言後、自分たちが育てた朝鮮人孤児たちによって、むごたらしく殺されてしまった。

 

 次は、和夫夫婦が死んだ日、日ごろ深い恩を感じていたキム・ソンス君の報告を記録したものである。 事件当時、キム・ソンス君も加害者だったが、殺人行為には加わらなかったという。

 

 

 その日から、万歳(マンセー)の声とともに太極旗が翻り、ついに朝鮮人の世がやってきた。 神は自分が受けるべき朝鮮人の愛を横取りしたと、和夫君に嫉妬したのだろうか。

 和夫が実の子のように育て、東京帝国大学にまで留学させたAを中心に、和夫の家で教育を受け成人するまで育ててもらった青年たちが、鎌とツルハシ、シャベルをもって、和夫のもとに押しかけた。 

 当時、現場にいたキム・ソンス君は、このときのことを次のように証言している。

 

和夫:(優しい目で)なぜこんなことを、お前たち。

 

 A: チョッパリ! 日本へ失せろ。失せろってんだ。

 

和夫:(わざと怒り声で)私がお前たちに何か間違ったことをしたかい?お前たちはみんな私の子供たちだし、私はこの家の家長でありお前たちの父親だ。 お前たちの祖国が独立することは、私も日ごろから強く望んできたことだ。 踊りたくなるような嬉しい日に、なんだって凶器をもって私のところに詰めかけてきたんだい。 私はお前たちをこんな風に教育した覚えはない。 (涙を流して)本当に哀しいよ、朝鮮の子供たち。 私は愛情を注いで育ててきたが、結局、日本人と朝鮮人は交じり合うことはできないということなのかい? お前たちが望むんなら、帰ってやろう。

 

 A: 意味深長な目配せをBに送る(財産を全部処分して帰ったら、俺たちはどうやって食ってくんだ?)

 

 B:死ね、チョッパリ、このくそ野郎!

 

 次々にツルハシが和夫の後頭部に振り下ろされ、それと同時にたくさんのシャベルと鎌が体をずたずたに引きはじめた。 

和夫の妻は耐えられず飛び出してきた。

 それまでじっとしていたCは和夫の妻を見ると、彼女の髪をつかんで庭の片隅まで引きずっていった。 そして、なんと13人は、一週間前までお母さんと呼んでいた彼女を強姦しはじめた(キム・ソンス君はこの場で自分が止めたなら、自分も殺されていただろうと語る)。 彼女はひどい集団強姦の途中で死亡した。

Dは普段お母さんと呼んでいた彼女の全身をめった刺しにし、それでも足りずに内臓を掻き出して撒き散らした。

 

 和夫にはひみこという娘が一人いた。 普段、模範的でよい子だったひみこは、学校が終わって家に戻り両親に起きた惨状を見ると、気が触れてしまった。

 当時、ひみこの慟哭が何日も続き、近所の住民は眠れなかったという。 その後、孤児となったひみこは食べもの乞いに村を回ったが、誰一人見向きもせず、知らないふりをした

 

 結局、彼女は9日後、村の橋の下でやせ衰えた死体となって発見された。 ひみこは小学校6年生だった。

 和夫の財産は「勇猛で愛国心に燃える」朝鮮青年たちの手にまるごと渡り、この事件は村人たちの沈黙の中で徐々に忘れ去られていった。

 

■「財産」を分け合った南北朝

 日本の敗戦後、南朝鮮地域では9月初めに第24軍団が進駐するまでの約1ヶ月、無政府状態の時期があった。 その後米軍政が始まり、朝鮮に住む日本人が米軍政の命令に従って全員日本に強制引揚させられた。

 

 その中には虐殺された日本人も多くいたとされる。

 

 単に、当時の満州やモンゴル、中国地域にいた日本人よりは、朝鮮にいた日本人の方がずっとましだったというだけで、朝鮮での虐殺は日本でもそれほど関心をもたれていない。 残酷なソ連軍に占領された満州とモンゴル、そして国民党と共産党の中国地域にいた日本人は、軍人であれ民間人であれ、生き残るのが難しかった。

 

 特に、満蒙地域のソ連軍による蛮行は、抑留60万人、虐殺6万人というのが通説だったが、ロシアのジャーナリスト、アルハンゲリスキーが書いた『シベリアの原爆』(邦題:『プリンス近衛殺人事件』新潮社、2000年)という本によりその実情が暴露された。

 この本によると、ソ連による日本人抑留は約100万人に達し、このうち40万人が虐殺されたという。 虐殺された人の方が原爆での死者より多いため、アルハンゲリスキーはタイトルをこう名づけたのである。

(中略)

 それに比べて、少なくとも南朝鮮では終戦初期に特別な事件は起こらなかった。

しかし、日本に対する評判がよかったといっても、その後、海外からいわゆる独立運動家」を自負する者たちが続々と帰国し、米軍政も日本に対する「いじめ」を唆したため、正確な数字は明らかでないにせよ、多くの日本人が虐殺されることになったのである。

 

以下略

 

和夫一家が殺害されるシーンを大文字で強調したのは、「残忍さ」を強調させたのではなく、この「残虐な殺害方法」が「中国由来によるもの」であり、今まで韓国が「日本軍が行った残虐なこと」というのは、「自分たちが何百年と行ってきた残虐な殺害方法」であることを知って欲しいと思ったからです。

 

これらの「残虐な殺害方法」は、前回の記事に書きましたが、「中国古来の方法」と全く同じであることに気がつかれたと思います。

そして、南朝鮮人に日本人への憎しみを植え付けたのが、やはり「間島(琿春)事件」「尼港事件」などを起こした「独立軍:馬賊、匪賊」だったということのようです。

 

韓国の英雄「独立軍」が起こした残虐な鬼畜の「間島(琿春)事件」 - 姥桜

 

そうなると…

日本共産党が「民団の光復節」で演説していた内容が気になりますね。

 

韓国民団 光復節中央記念式/志位委員長のあいさつ(全文) 

>『日本共産党は、戦前の時代から、日本帝国主義による朝鮮への植民地支配に反対し、朝鮮独立のたたかいに連帯してたたかった政党として、…』

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因みに、「ソ連中国国民党中国共産党が日本人を虐殺した」時も、「日本共産党も日本人虐殺に加担していた」のをご存じでしょうか…

長くなりましたので、またの機会にさせていただきます。

 

 

最後までお読みくださいまして有難うございます。

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