韓国と共産党(悪魔思想)との繋がり

今日もお立ち寄り有難うございます。

 

今、朝鮮半島の南北統一でお隣の国は揺れていますね。

にも拘わらず、日本の左翼野党は「モリカケ」問題一辺倒ですね。

左翼野党からしたら、「憲法改正を阻止したい」「中国の軍事的脅威」から、とにかく安倍政権批判で日本国民の目から逸らしたい、誤魔化したいところなのでしょう。

そこで、少し朝鮮半島共産主義(悪魔思想)の接点などについてお話したいと思います。

 

産経新聞2017.12.17

重慶の韓国抗日拠点跡 視察』

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 韓国の文在寅大統領は16日、中国内陸部の重慶で、朝鮮半島出身者の抗日拠点だった「大韓民国臨時政府」庁舎を視察した。「臨時政府は韓国の根っこだ」と強調し、韓国は中国での抗日活動を継承した国家だとの認識を示した。

(中略)

 1919年に上海に設置された臨時政府は各地を転々とした後、40年から重慶に移った。

文氏は16日、抗日活動家の子孫らとの面談で、2019年に臨時政府設立から100年となるのに合わせ、韓国に記念館を建てる意向を表明した。

(中略)

文氏は習氏との14日の会談や15日の北京大学での講演で繰り返し南京事件に言及し、中国政府も歓迎する立場を示した。講演では「韓国独立運動史の英雄」として、上海で旧日本軍の要人らを爆殺した尹奉吉を取り上げ、「抗日運動は中国と一層深く手を結ぶことになった」と指摘。 以下略

 

大韓民国臨時政府 Wikipedia』より

 

 大韓民国臨時政府は1919年(大正8年)の日本統治時代の朝鮮で起こった三・一運動後、海外で朝鮮の独立運動を進めていた活動家・呂運享・金九らによって、中華民国上海市で結成された朝鮮(韓国)の独立運動組織である。

(中略)

蒋介石中国国民党は党派間の融和に協力した。蒋介石のみならず中国共産党も臨時政府の活動を支えた。

(中略)

臨時政府はシベリア派と上海派の対立、安昌浩等の「民力養成論」派と李東輝等の「即戦即決論」派の対立。さらに李承晩と安昌浩の対立など、指導者間の対立によって混乱し、1923年の国民代表会議の決裂以降は急速に勢力が弱まった。

(中略)

1941年12月9日、対日戦線布告をするが、これは日本政府に布告文書は通達されておらず、実効性は全くなかった。1942年、蒋介石の指示により、独立運動の分派である朝鮮民族革命党の軍事組織である朝鮮義勇隊が臨時政府に合流し、軍部の統一が実現した。

 

その後、アメリカ戦略事務局(OSS)と協約を結んで光復郡軍の特務工作訓練を受けたが、その準備中に日本の降伏を迎えた。

(中略)

1919年9月に統合された臨時政府は国務総理に李東輝を選出し1920年に李東輝・申圭植・慮伯〇が国務総理代理を引き受けた。 以下略

 

まず、「大韓民国臨時政府」と「中国共産党」は、抗日戦争で戦ったと粋がっていますが、日本軍はどちらとも交戦しておりません。

毛沢東率いる中国共産党軍は、日本の諜報機関「岩井公館」の岩井英一や陸軍参謀の特務機関「海機関」を設置した影佐禎昭中佐などと接触し、国民党軍の情報をお金で売っていたのです(『毛沢東 日本軍と共謀した男』遠藤 誉著参照)。

この点では、マルクス毛沢東は同志(毛沢東の場合は抗日での同志・蒋介石)を売るという点で同じ裏切り者ですね。どちらも人類の敵です。

 

そして、「大韓民国臨時政府」も、Wikipediaに書かれている通り、日本軍とは一戦も交えておりません。

なので、「抗日戦争で戦った」という中国共産党も韓国も真っ赤な嘘をついています。

 

また、「南京事件南京大虐殺)」についても、当時、日本軍と戦っていたのは蒋介石率いる国民党軍であり、中国では1979年代まで「南京大虐殺」という事件などなく「南京陥落」という資料しかありませんでした。また、南京市の人でさえ「南京大虐殺」など知らないのです(『毛沢東 日本軍と共謀した男』遠藤誉著より参照)。

 

それをなぜ韓国の文大統領が中国で講演するのか理解できません。ただのバカなのか?無知なのか?韓国人のこのような嘘つきは今に始まったことではありませんが…

 

さて、韓国大統領文氏のいう“韓国の根っこ”である「大韓民国臨時政府」の創設当時の国務総理・李東輝ですが…彼はコミンテルンの大会に出席し、朝鮮に最初に「共産党」をつくった人物です。

 

それ以前に、レーニンから資金援助を受け取って、恐ろしい「尼港事件」に加わった中心的人物でもあります。

つまり、韓国(大韓民国臨時政府)には1919年の創設時より、悪魔思想(共産主義)はずっと受け継がれていたということです。

 

尼港事件 Wikipedia』より

 尼港事件は、ロシア内戦中の1920年大正9年)3月から5月にかけてアムール川の河口にある二コラエフスク(尼港、現在の二コラエフスク・ナ・アムーレ)で発生した、赤軍パルチザンによる大規模な住民虐殺事件。港が冬期に氷結して交通が遮断され孤立した状況の二コラエフスク7をパルチザン部隊4300名(ロシア人3000名、朝鮮人1000名、中国人300名)が占領し、二コラエフスク住民に対する略奪・処刑を行うとともに日本軍守備隊に武器引渡を要求し、これに対して決起した日本軍守備隊を中国海軍と共同で殲滅すると、老若男女の別なく数千人の市民を虐殺した。

 

 殺された住民は総人口のおよそ半分、6000名を超えるともいわれ、日本人居留民、日本領事一家、駐留日本軍守備隊を含んでいたため、国際的批判を浴びた。日本人犠牲者の総数は判明しているだけで731名にのぼり、ほぼ皆殺しにされた。建物はことごとく破壊され二コラエフスクは廃墟となった。この無法行為は、結果的に日本の反発を招いてシベリア出兵を長引かせた。 以下略

 

抗日パルチザン Wikipedia』より抜粋

 もともとロシアにおける「パルチザン」という言葉は、本隊に対する別機動隊(遊撃隊)を意味する軍事用語だったが、十月革命の主体となったボリシェヴィキが、支持派の非正規軍を好んでパルチザンと称したため、この当時から日本でも、共産主義と結びつけて使われることが多くなった。

 

 沿海州を中心に、シベリアには多くの高麗人が住んでいて、ロシア国籍を持つものも多かった。彼らの中には、徴兵で独ソ戦を戦った後に帰還し、パルチザン部隊を立ち上げる者もいた。

 

 また義兵闘争のころから沿海州に逃れ、独立運動をくりひろげてきた朝鮮人亡命者も多く、その一人である李東輝が上海臨時政府の国務総理になり、レーニンから資金援助を得たこともあって、高麗人パルチザンは抗日独立の旗をかかげていた。

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 中でも朴イリア(エルリアとも)率いるサハリン部隊は、1920年大正9年)、尼港事件の襲撃に加わって有名になった。中国政府の調べでは尼港事件における赤軍パルチザン4300人のうち、朝鮮人が1000人を占めていた。 以下略

つまり…韓国も、北朝鮮と同じパルチザンの系列で、共産党の援助で反日活動をしていたということですね。

それにしても、シナ大陸と朝鮮半島にかかわるとロクなことはありません。

 

日本共産党 しんぶん赤旗』2010.8.16

『韓国民団 光復節中央記念式 志委員長あいさつ(全文)』

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日本共産党は、戦前の時代から、日本帝国主義による朝鮮への植民地支配に反対し、朝鮮独立のたたかいに連帯してたたかった政党として、日韓両国国民が、真の親愛の情でむすばれた友好関係をうちたてるために、つぎの諸点で力をつくす決意です。以下略

なんのことはありません。日本共産党コミンテルン日本支部ですので、「22年テーゼ」に従って活動していただけのことです。

 

22年テーゼ Wikipedia』より

 22年テーゼは、1922年にコミンテルンで示された『日本共産党綱領草案』の通称。

1919年に創設されたコミンテルンは、1922年1月にモスクワで極東民族大会を開催した。

(中略)

内容は君主制の廃止、軍隊の廃止、労働者の武装権、朝鮮・中国からの撤退、土地公有化などであった。

 

日本共産党は現在も「自衛隊反対」闘争をしていますよね。

憲法9条改正反対」の原点ともいえますね。

「朝鮮、中国からの撤退」…つまり、ソ連帝政ロシア時代を受け継いで「南下政策」を推し進めるために、日本軍が邪魔だったのでしょう。

 日本共産党が日本国、日本国民のための政党ではないことがよく理解して頂けたと思います。

 そして、韓国が「反日」なのは、当初(レーニンの時代)から共産党が裏で操っていたということもあるのではないでしょうか。

 

 さて、日本共産党が戦前、朝鮮(韓国)人とともに闘ってきた…という言葉ですが、これは本当の話です。

長くなりますので、次回に続きを書かせて頂きます。

 

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マルクス・レーニン主義(共産主義)と悪魔信仰

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大紀元日本

ロシア革命後の世界

『知られざる共産党と悪魔信仰 残虐なレーニン』

2017.5.21

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 1917年のロシア革命後、外国に逃亡していたレーニンがロシアに戻り、「十月革命」で臨時政府を転覆して権力を握った。共産主義の人類に対する敵視は、ソビエト政権から粛清と大虐殺の形で具現化された。

 

 

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 マルクスエンゲルスは悪魔信仰者だったが、レーニンも同じだった。レーニンの「同志」トロツキーは「青年レーニン」と題する本にて、16歳のレーニンが首にかけた十字架を外してつばを吐き、そして十字架を足で踏んだことを書いている。

 これはサタン教によく見られる儀式だ。作家のアリドナはレーニンについて「レーニンは邪悪な人で、狼のような邪悪な目つきだった」と評価した。

 

 「革命についていえば、確実に成功するためには統治階級と文化人を粛清するしかない」レーニンは革命後、この自らの言葉に沿って虐殺を始めた。

 1917年、レーニンは自ら秘密警察「チェカ(KGBの前進)」を組織し、逮捕、立案、量刑そして死刑執行の権力を付与して恐怖政治を始めた。

 1918年にはソ連初の強制労働収容所を設立し、ソ連邦では以降多くの収容所が建てられた。

 

 レーニンは自らの発案により、高い文化水準を持つ知識人を国外追放し、圧制に抵抗したクロンシュタットの水兵を残酷に鎮圧した。1922年、レーニンはソビエト大会において「メンシェビキを公で唱える者に対し、我々の裁判所は一律にして銃殺の刑を言い渡す」と演説した。同年8月には「行政駆逐法令」を発布し、その影響で年末までに200万人以上が駆逐され、国外追放された。

 

 ロシア皇帝ニコライ2世一家の処刑からもレーニンの残虐さが見て取れる。1918年7月、監禁されたニコライ一族は裁判を経ずに殺害された。子供を含む11人が銃殺され、死体は焼かれ、そして硫酸で顔を溶かされた。

このロシア皇帝こそ、レーニンの追放先での優雅な生活を保障し、毎月8ルーブル支給していたのだ。

 

 ロシア思想家のプレハーノフはレーニンの残酷で凶暴な一面に気づき、臨終の時に書いた「政治遺書」で次のように述べている。

 「レーニンは定めた目標を達成するためにどのようなことでもする。必要となれば、悪魔とでも手を組むだろう」

 「レーニンは半数のロシア人を幸せな社会主義の未来に追い込むために、もう半数のロシア人を殺すことさえ厭わない」 以下略

 

ロシア革命「歴史的意義=共産・志位氏』

時事通信 2017.11.9

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マルクス・レーニン主義共産主義)が、悪魔思想から成るもので、ロシア皇帝のみならず、ロシア国民を残虐な方法で粛清をし、恐怖政治が確立されたことを、日本共産党志位和夫は「歴史的意義を持つ革命」と賛美しているのです。

こんな悪魔思想に彩られた政党が今も日本に存在していることが不思議でなりません。

 

 

大紀元日本

『レーニンも「非情な男」と呼んだ独裁者スターリン

2017年5月23日

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恐怖の大粛清 独裁者スターリン

 スターリンはレーニンの後継者として、次のような発言をしている。「友情をはぐくむことは最大の快楽だ。彼が君を信頼して頭を君の胸に近づけ、そして彼の背中にナイフの一撃を食らわせることができる、これぞ最高の快楽だ」。

 

 スターリンは15歳の時にマルクス主義を志向し始め、神を離れ、悪魔崇拝を始めた。

後日、スターリンが革命者として文章を書いた際、彼が最初に用いたペンネームは「悪魔」、その次が「悪魔のような」であった。

 

 1912年、血も涙もない冷徹な人間であることを表す「鉄の男」の意味を示す「スターリン(Man of steel)が、新たなペンネームとなった。レーニンでさえ、スターリンは「党内で最も冷酷で非情な人物」と評価した。一方で、ソ連共産党の高官ブハーリンは「彼は人ではなく、悪魔だ」と例えた。

 

 1930年、ソ連は強制労働収容所管理局「グラーグ」を設立した。のちに社会主義各国はソ連強制収容所を模倣したが、それは極端に劣悪な環境と非人道的な待遇で悪名高いものだった。スターリンが1953年に死去するまで、ソ連には170ヵ所の強制収容所が建設された。

 

 1930年から1940年にかけて、飢餓や重労働、非人道的な扱いにより50万人以上が強制収容所で死亡した。中には詩人や芸術家、学者そして研究者が含まれていた。

 

 スターリンの時代には800万人以上が餓死する大飢饉も発生した。1930年代の大粛清は党や政治局、軍隊、中央政府そして地方政府に対する全面的な粛清に発展し、死亡者数は200万人とも言われる。 以下略

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共産主義黒書 ソ連篇』より

 

レーニンの時代にも大飢饉がありました。

神戸大学電子図書館

大阪朝日新聞 1921.9.7-1921.9.8

赤露の大飢饉(上・下)』

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 レーニンは農民から農作物、種まで没収したので農民もまた餓死者が続発しました。汚水からコレラの発生もあり…惨憺たる模様です。

 

これでも、日本共産党マルクス・レーニン主義を現在も賛美しているのです。「民族自決権の旗を初めて無条件に掲げて実行した」と礼賛しているのですが、これは「民族自決(自殺)」という意味でしょうか?

それとも「民族粛清」という意味なのでしょうか?

 

ソ連の毒牙に、何十万という日本人もかかりました。

産経新聞2018年4月10日

『抑留中 銃殺判決114人』

旧ソ連 研究者発表、減刑復員者も』 

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産経新聞 2018年4月7日

『抑留死亡 新たに550人分』

『シベリア地域 延べ5万5000人に 厚労省公表』

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GHQ 知られざる諜報戦』C.A.ウィロビー著

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驚くべき洗脳教育

 ソ連の捕虜収容所で日本軍捕虜たちがいかなる扱いを受けてきたか、いまや日本の人たちで知らない者はいないと思う。それは抑留者たちの回想記や体験記を読むまでもなく、非人道的なものと断定して間違いはなさそうだ。なにしろ帰還兵たちを訊問したG2の情報員たちでさえ、驚くほどの実情だったのだから。

 

「われわれは、まるで奴隷のように重労働を課せられ、多くの仲間が栄養失調と病に倒れ、そして死んでいった」

 

帰ってきた兵士たちの多くは口をそろえた。それでも早い時期に帰れた捕虜たちは恵まれていた。多くは一日、また一日と帰還を延ばされていた。ソ連当局はこれら日本人捕虜の中から慎重に人選し、これを日本に帰したのち、第五列(国内事情を、特定国または敵軍に通報するいわゆるスパイ行為をする一群の人々を指す)の指導者的任務につかせるために“洗脳教育”をしていたのだった。 

以下略

 

それでもいまだに共産主義スターリンを礼賛する政党と大新聞があるのを知っていますか。

不思議なのは、共産党支持者が結構いることと、朝日新聞購買者が何百万人もいるということです。実に怖ろしいことです。

立憲民主党の「有田芳生(ヨシフ)」という名前は、日本共産党員だった両親が尊敬する「ヨシフ・スターリン」から名前をとり、付けました。

共産主義者というのは「人の命」「人類の幸福」より、「思想」を大切にする…カルト集団だといいうことですね。

 

日本共産党

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…と、朝日新聞です。

『これでも朝日新聞を読みますか?』山際澄夫

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ポルポトも礼賛

 朝日新聞はもともと、毛沢東の中国、金日成北朝鮮スターリンソ連、それにポルポトカンボジアに対する著しい礼賛報道で知られる。

 これらの国ではそれぞれ人類史に例を見ない自国民に対する大量虐殺を行ったことが日に明らかになっているが、朝日新聞紙面では毛沢東が発動した文化大革命を「近代化への模索」(1967年8月11日)と論じたり、スターリンを「子供好きなおじさん」(1953年3月7日夕刊)、カンボジアポルポトを「アジア的な優しさに溢れている」(1975年4月19日夕刊)と報じたりした。以下略

 

そういえば、かつて中沢新一という思想家が、「レーニンは子供好きだった」と評していましたね。

朝日新聞は1941年9月7日(昭和16)に、「ナチスは恐ろしく児童好きである、ヒットラー総統、ゲーリング国家元帥の子供好きなのは有名であるが…」と書いていました。

『朝日新聞1941年、ナチス、ヒトラー、ゲーリングを礼賛していた』

朝日新聞はカルト新聞ということではないでしょうか。

 

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共産主義が残忍なのは、サタン宗教が基本にあるから。

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GHQ知られざる諜報戦』C.A.ウィロビー著

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 数十万におよぶ不幸な旧日本軍兵士、および被抑留者たちの消息を確かめ、彼らがどのようになったのかを突きとめるため、マッカーサーの情報部、すなわち私のG2は万全の努力を重ねた。

 私はソ連から引き揚げてきた戦争捕虜を訊問して情報を得ようとした。その結果、捕虜収容所の許しがたい環境のため、数千名もの将兵が死亡したことが判明した。まったくの奴隷と化していた日本人たちは、信じられないくらいの辛苦をなめさせられていたのである。

 

 ついに故国の土を踏んだ生き残りの引き揚げ者たちが、決してウソは言わぬと誓い、涙ながらに語った証言によれば、百ヵ所以上のソ連収容所にいた二十万九千三百名の捕虜のうち、五万一千三百三十二名が栄養失調や伝染病が原因で死亡したという。

 その死亡率は二四・五パーセントに達する。さらにある地域では死亡率は六〇パーセントにも達していた。

 地方病院の一つで、墓掘りとして働かされていたある引き揚げ者の、次のような報告は典型的なものであろう。

 

「飢えと疾病のためあまりにも多くの人が死んだので、五十名からなる屍体処理班は、死者を焼く仕事を遅滞なく果たすことができなかったほどです。軍医の話だと、一九四五年から一九四七年にかけての死亡者の数は、その地域では三〇パーセントの高率に達したそうです」

 この証言者は、そう語ると、しばし絶句してしまった。

 

 ある地方で報告された高い死亡率は、すべての収容所に等しくあてはまるものである。これらの人々は、帝政ロシア時代よりもはるかに苛酷な奴隷的労働条件の下でこき使われた結果、死んでいったのである。

 

 ソ連の残虐行為の一つ一つが、わがG2の調査の結果明らかにされ、ワシントンに報告された。

 これらのすべての顛末は、のちに『シベリア戦争捕虜収容所における生と死』というタイトルをつけられ、目撃証言による報告書として国連に提出された。

 報告の一つ一つは、どれも身の毛がよだつものである。

 

 ところが国連はこの報告書を無視してしまった。しかし、マッカーサー元帥は東京でのソ連大使との「冷戦」で、これを有効に活用することができた。デレビヤンコ将軍が「日本の労働者階級や個々人の権利の保護者」であるかのごときポーズを取ろうとするや、いつでもシーボルト大使は、ロシア人の牙にかかって大量殺戮された日本人捕虜の件を持ち出したのである。

 すると警察の野蛮行為とか、米軍の行き過ぎとか、労働運動に対する抑圧とかを並べ立てては口角泡を飛ばしていたデレビヤンコ将軍は急に黙りこくってしまい、彼の毒舌もただちに止んだものだった。

以下略

 

上記の文中で赤字にした部分ですが、ソ連の将校の言い訳が、日本共産党と全く同じ論調なので強調させていただきました。

基本的に共産主義者は平気で嘘と言い訳で生き延びてきたカルト集団ですので、彼らに人類が望む「平和、平等、人権」を説いたところで理解出来ないと思います。

「国連」もしかりですが…

 

ロシア革命「歴史的意義」=共産・志位氏』時事通信

2017.11.9

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 共産党志位和夫委員長は9日の記者会見で、1917年のロシア革命から100年を迎えたことについて、「スターリン以降、専制主義、覇権主義という形で革命の成果は損なわれて崩壊したが、世界史に非情な大きな持続的影響を与え続けている歴史的意義を持つ革命だった」と評価した。

 

 志位氏は、革命によるソビエト政権の樹立に関し、「民族自決権の旗を初めて無条件に掲げて実行した。暮らしと経済という点では、社会権という問題を初めて掲げた。社会保障という言葉が初めて出てきたものもここからだ」と指摘した。

 

日本共産党ロシア革命ソビエト社会主義を称賛してますが、ロシア革命フランス革命よりも更に残忍でおぞましい革命であったことを、どうやら知らないようです。

『血の上の救世主教会 Wikipedia

さらに、世界の共産主義国にまともな「社会保障」なんてありません。

あるのは、「独裁・抑圧・殺戮(計画的餓死含む)」です。

 

そして、スターリンだけが間違っていたかのような言い方ですが、そのスターリンを妄信していたのは、日本共産党自身です。

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何十万という日本人、日本兵が虐殺された事実が明らかになった以降も、日本共産党スターリンを「平和と解放のみちびきの星」「スターリンはわれらの胸に」などと礼賛していたのです。

日本共産党にとって共産主義によって1億人以上の人々が粛清されようが、同胞の日本人が何十万、何百万人殺されようが「共産主義革命」、「ソ連社会主義を守る」という目的の方が大切なことなのでしょう。

 

日本共産党の経典「マルクス・レーニン主義共産主義)」の真の姿

大紀元日本 カール・マルクス、悪魔への道(上)』より

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  サタン教の儀式に参加し、サタン教徒に

 マルクスが18歳の頃に、大学で一度霊的な現象に出会い、それから敬虔なサタン教徒になったという。今残された資料から、彼がサタン教徒の儀式に参加したときに、サタンが何かの形で現れ、それを見たマルクスが「自分はサタンの代弁者だ」と信じるようになったのだと推測できる。

 

 そのころに彼が書いた戯曲『オーラネム』には、サタニスト教会で行われる黒ミサの儀式が描かれていた。『オーラネム』というタイトル自体はキリストの聖なる名の逆さづりであり、黒魔術ではそのような倒置に魔力があるとされる。

 

 『オーラネム』の「演奏者」と言う詩のなかで、マルクスは自分のことを次のように書いた。

 

 地獄の気が舞い上がって、やがて私の脳を充満した

 私は気が狂い、心が完全に変わった

 この剣を見たか?

 闇の大王がそれを私に売った

 私のために、彼は拍子を取り、合図をする

 私の死の舞もますます大胆になる

 

 ここでも、マルクスは悪魔サタンと何かの契約を交わしたことがわかる。

(中略)

 人類の滅亡を目指すサタンの代弁者

 ここでまた戯曲『オーラネム』の台詞を引用する。

 

 若き我が腕に力が満ち溢れる

 凶暴な勢いで

 君たち人類を掴んで、そして壊す

 暗闇の中、底なし地獄は我々に口を開いた

 あなたが落ちて、私は笑ってついて行く

 そしてあなたの耳元で、「下で会おう」と囁く

 

 聖書啓示録では底なし地獄について「悪魔そして堕落した天使に用意されたもの」と書かれているが、マルクスは全人類をこの地獄に落とそうとしていた。

 オーラネムの死について、マルクスは次のように書いた。「滅亡、滅亡。私の時間が訪れた。時計が止まり、建物も崩れる。私は永久に手に入れ、生命の叫びとともに、全人類に呪いをかける」

 

 才能に溢れた18歳のマルクスは『オーラネム』で自分に決めた人生計画を明確なものにした。人類・無産階級・社会主義などに捧げるのではなく、この世界を壊すこと、社会に動乱・苦痛をもたらすことで、自らの王座を築こうとしていた。

 

 マルクスは詩人ゲーテの『ファウスト』の中の悪魔メフィストフェレスの台詞「すべての存在が壊されるべきだ」を好んでいたという。マルクスにとって、ここの「すべて」には、無産階級、共産主義のために戦う人々も含まれるが、後のスターリンは自分の家族さえも、この「すべて」として壊した。

赤字の部分ですが、ソ連、中国、北朝鮮共産主義の同志が次々と処刑されていきました。そして、彼ら独裁者の家族(妻や子供、兄弟さえも)も見殺しにされ、処刑の対象とされていったのです。

 

大紀元日本 カール・マルクス、悪魔への道(下)』より

  資料館で偶然発見されたこの手紙によると、マルクスがロンドンで亡命していた時期に、革命の同志を密告していた。ともにロンドン、パリ、スイスなどで亡命していた同士に関する密告は1つにつき、マルクスは25クローネの賞金を手にしていた。密告された中にはルージュ(Ruge)という革命家もいたが、彼は自分がマルクスの親友だと思い込み、2人の間で往復された情熱溢れる手紙は今も保存されている。

 

 また、マルクスは家族を養うことなど脳裏になかった。数カ国の言葉を自由に操れるマルクスは、生活が不自由のはずはなかったが、彼はエンゲルスからの援助で生計を立てていた。

(中略)

 マルクスは家計の遺産に対する執念も深かった。病気の辛さを耐え忍んでいる叔父に対してマルクスは、「あの犬が死んでしまえば、(財産の引継ぎの)妨げもなくなる」と書いていた。

 

 彼は母親に対しても容赦がなかった。1863年12月に、マルクスは母親の死について、エンゲルスにこう書いた。「2時間前に電報が届いた。母が死んだらしい。家族が亡くなる運命で、私もいつか死ぬだろう。多くのとき、私に必要なのは1人の老人ではなく、その財産だ。それをもらいに、トリーアに発つ」

 

 マルクスは無産階級を「愚かなガキ、ごろつきども、ロバ(間抜け)」と表現していた。彼は結局一生涯、誰も愛さず、誰も信じることはなかった。

※赤字の部分ですが、ソ連、中国、北朝鮮も密告制度がありました。

そして、ソ連に渡った日本共産党員も同志(野坂参三)の密告で処刑されています。

『大粛清 Wikipedia』

 こういった歴史的事実も、日本共産党は無視し、嘘をつき通しています。

共産主義は宗教を禁止していますが、共産主義自体がサタン教ですので、他の宗教を禁止するのは極めて自然なことと言えます。

ところで素朴な疑問なのですが、日本共産党の党員は家族が亡くなったら、お葬式を挙げないのでしょうか?

お経はあげないですよね? 

まさか、頭にろうそくを巻いたりしないですよね?

 

 つづく

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敵を間違えた米国:平和の敵は日本ではなく「共産主義者」だった。

 

今日もお立ち寄り有難うございます。

 

 アメリカは日本の弱体化、細分化を謀るために、日本に占領憲法を押しつけてきたわけですが、敗戦日本に駐留して、ソ連による日本兵シベリア抑留、日本共産党による騒擾事件の多発、戦前の特高の資料(ゾルゲ事件)、朝鮮戦争勃発から、日米の戦争はソ連共産主義者が仕掛けた罠だったということに気が付きます(因みに、日本では今でも“共産主義者は善で、特高が悪”ということになっていますが)。

 

 共産主義者は「ソ連社会主義を守る」ことを使命としていますので、日本が旧ソ連、中国、北朝鮮を攻撃できないように「憲法9条」を改正したくないのです。

『反戦 平和」の真っ赤な嘘』

 

日本共産党中国共産党の首脳会談での不破議長の発言(大要)』2002年

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要するに、共産主義の繁栄こそが平和を守るといいたいんですね。

日本が憲法9条改正すると、中国や北朝鮮に反撃に出ると恐れているようです。

因みに、日本は戦争で中国を侵略などしたことはございません。

清朝の継続国家、満州族の「満州国」は、帝政ロシア旧ソ連)が侵略してきたために、日本が保護国として建てた国です。そもそも、当時、中国なる国は存在していませんでした。満州国を侵略したのはソ連中国共産党です。

 

 

先ずは、田中角栄の回顧録から紹介します。

早坂茂三の「田中角栄」回想録』早坂茂三

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共産党をつかまえろ」

 ところが、アメリカは、日本の弱体化、非軍事化を進めているうちに“平和の敵”は別にいることがわかったんだな、恐るべきは日本じゃない、と。

北方の白熊だよ、アメリカが顔を突き合わせた“平和の敵”は。

ソ連を主軸としたワルシャワ条約機構共産主義国家郡だ。

 「ベルリンの壁」という大事件が起こり、朝鮮戦争が発生した。そこでアメリカは、北方の熊に対抗するために、日本や西ドイツに対するそれまでの“生かさず殺さず”政策をやめて、両国を再軍備させ、西側陣営の連帯強化を図ろうと、政策の大転換に出たわけだ。

 その政策大転換とは、具体的にいうと、有名なジョージ・ケナンによるアメリカ外交方針の転換であり、マーシャル・プランの発表であり、ドレーパー勧告による日本への賠償放棄宣言である。

 

 そういった情勢激変のなかで、素早く反応したのは、またしても西ドイツだよ。憲法、すなわちドイツ国基本法をサッと改正した。

ところが日本、こちらは「再軍備させます」といっても憲法改正が必要で、それがおいそれとはできない。日本国憲法は衆参両院において三分の二以上の多数の発議がなければ改正を提案できない、と定めているんだからね。

 

 アメリカは東西対立が激しくなると、すぐ日本に、憲法改正をはっきりと要求したんだ。直ちにやってくれ、と。しかし、国内はそう簡単に憲法改正できる情勢じゃない。そこでアメリカは、しょうがなくて、憲法改正の代案として「共産党をつかまえろ」といったわけだ。 以下略

 

実は、ソ連共産主義の恐ろしさを戦前の日本は見抜いていたんです。

神戸大学電子図書館 大阪朝日新聞1920.1.22―1920.1.31

『共産治下の露国(一~九)レニンの政治振り』

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一九一七年十月二十五日のクーデター以来、二月革命並に帝政時代の凡ゆる立法、行政及び司法制度を破壊した、個人自由に対する保障の如きは全然破壊され、革命の齎した進歩的民主的改善は消滅し去って、過激派官僚の専制と代わった、国法は地を仏い過激派の官吏は唯気分の向く儘に、凡うる勝手な真似をして居る。

(中略)

幾万の男女が何等の判決なく単に行政命令によって銃刑に処せられた事は、過激派と誰も之を否認する訳に行かぬ、此れ丈でも彼の沸国革命の恐怖時代と比較にならぬのである…以下略

 

GHQ 知られざる 諜報戦』C・A・ウィロビー著

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  冷戦はすでに大戦中に開始されていたが、戦後、極東において、とりわけソ連からの旧日本軍兵士の復員作業である。すでに記したように、マッカーサーは「歴史上、戦時平時を通じ、米国でもその他の国でも、これほど敏速かつ円滑に復員が行われた例を私は知らない」と報告したが、残念ながらソ連からの復員だけは例外であった。

 

 終戦時には六百万人以上の日本軍兵士が太平洋上の島々やアジア大陸に散らばっていた。それは純粋な人道主義的理由からも、また解放された国々の経済的負担を軽くするためにも、彼ら日本兵のすみやかな帰国は望ましいものとされた。

 そして一九四六年までに、大部分の者が健康な状態で帰国した。その数は、ピーク時には一週間で二万名にも達するほどであった。

 

 ところが、ソ連からの旧日本兵の引き揚げはきわめて緩慢かつ遅鈍に行われ、じつに七年余にわたった。それは米軍側の迅速な復員作業と、好対照をなしているといわざるをえない。

 

 ソ連占領下の中国東北部(旧満州)からの引き揚げの配船は、マッカーサーがこれを保証しなければならなかった。彼は一ヵ月で三十万名を引き揚げさせるべく提案したが、ソ連はこの数字を約五万名に下げてしまった。

 ソ連には彼らなりのいろいろなプラン―裏での計算があったのである。これらのプランの第一は、日本兵捕虜を奴隷的労働力にすることだった。第二の目的は、日本兵捕虜を「洗脳」して完全な共産主義者に仕立て上げることだった。

 

 当時、ドイツのニュンベルクと東京では、日独両国の戦争犯罪人に対して連合軍による戦犯裁判が行われていた。そこでは日独両国による残虐な行為が裁かれていたが、ソ連に連行された満州地区の旧日本兵も、それら戦犯裁判の主要犯罪に匹敵する虐待と乱暴を受けているとして、全世界から非難を浴びせられることになった。

 

 ところがソ連は、日本兵捕虜に関する情報の提供を拒否してきた。そこで問題は東京にある連合国の対日理事会に移された。おかげで対日理事会のソ連代表クズマ・デレビヤンコ将軍と、アメリカ代表の絶えざる論争の一つになっていったのである。

 

読売新聞 1992年6月3日

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※写真がぼやけていて申し訳ございません。

 因みに私は幼い頃、近所にシベリア抑留から帰還した方がいて、親からその方の話を聞いていましたし、「ゾルゲ事件」のことも聞いていました。なので、他の大人もみんな知っているのかと思っていたのですが、実は現在の高齢者でも知らない方が多いことに気付き驚いている次第です。

 

考えてみれば、その後の日本は全学連全共闘などと…共産主義思想に被れた学生が日本中を震撼させた事件が勃発していましたね。

日本って…どうして阿Qが多いんでしょうか? 特に団塊世代から上の世代は…。

 

ソ連強制収容所で、日本共産党の素晴らしさ?を勉強する日本兵捕虜

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現在でも公安監視対象の日本共産党が各自治体、国会の議員になれているのが不思議でなりません。

 

   つづく

 

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「憲法の日」に寄せて③

今日もお立ち寄り有難うございます。

 

 すでに「(占領)憲法の制定の日」は過ぎていますが、田中角栄元首相の言葉が現代を生きる私たちにとって、一語一句が宝の言葉のように思い、「中略」を入れることなくお伝えしたいと思い、長い文章になっております。どうぞお許しくださいませ。

 

早坂茂三の「田中角栄」回想録】早坂茂三

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日本の非戦力化、弱体化、細分化

 中曽根総理は「戦後の見直し」ということをいっている。それは、どういうことか。

戦後というと今の若い人たちは、国が立ち直って高度成長期に入ってからのことを思い浮かべるだろうが、それより前に重要な「戦後」があるんだ。これを忘れちゃいかん。

そういう戦後を中曽根君と同じにすべて生きてきた政治家として、わたしの考えをしゃべっておく。

 

 わが国の長い歴史のあいだに、三つの大きな改革があった。大化の改新明治維新マッカーサー改革。この三つだ。

 

 大化の改新明治維新は、日本人による日本人のための改革の断行であって、それなりの合理性を持ち、近代性を持っていた。これによって、それぞれの当時の日本は大きく発展したんだ。

 ところがマッカーサー改革というのは、日本が第二次大戦に敗れて、アメリカを主力とした占領軍の支配下にあった時代のことだ。これは占領軍がわが国に対する占領目的達成するために、わが国の制度の変革を求めたものであってね。

そこにつくられたものは、日本人が日本人のためにつくった制度じゃなかった。この点が、前二者とマッカーサー改革が決定的に違うところだ。まったく違うもんだよ、これは。

 

 占領軍政策は敗戦の日から昭和二十七年四月、わが国が名実ともに独立を回復する日まで続けられたわけだけれども、その政策に流れていたのは、宗主国が自分の支配した国や領土に求めたものと同じ思想なんだ。

 占領政策の目的として、日本の自由化、民主化というきれいごとを並べているが、真の目的や基本政策というのは、わが国の徹底的な武装解除であり、非軍事化であり、弱体化、細分化であった。そうであったことはね、占領軍の総司令官であったマッカーサー元帥のいわゆる『マッカーサー・メモ』に明らかだ。

 

 要するにアメリカ占領軍は、日本が再び立ち上がって戦争を仕掛けることができないようにするために、戦前の諸制度や諸法規は何でもかんでも改めてしまおうと、そういう考えに立っていたんだ。連合軍、とくにアメリカはこう考えたんだろう。

第三次世界大戦が起こるとすれば、その火付け役になるのはやはり日本とドイツとイタリアであろう。この枢軸三国はこれからまた何をしでかすかわからない」とね。

 そこで枢軸三国の国家体制を徹底的に打破し、細分化して、戦争のタネを根こそぎ取り除いておく必要、というわけなんだな。

 

 ただし、連合国は第一次大戦の後、ドイツに天文学的な賠償金を賦課し、いじめて、それが逆にヒトラーから報復されるきっかけとなった苦い経験を持っている。

そこで今度は、戦いに勝っても勝者としての権利は放棄し、敗戦国をぎりぎりの土壇場まで追い詰めることはしないようにした。

賠償金を免除するわけじゃないけれども、敗戦国が自主経済を達成するまで待つという方針を取ったんだ。

その代わり、民主化、自由化の名において、敗戦国の非戦力化政策を入念に実施した。これは実にこうかつなやり方だよ。

 

 もちろん、わたしは、占領軍の政策が日本にとってすべてマイナスだったといいたいわけじゃない。主権在民への転換、農地解放、婦人参政権、労働基本権の確立……こういうものなんかは、よかったことの例だ。

こういった措置がね、戦後の日本を再建して、今日の繁栄を築き上げた日本のエネルギーを全面的に解き放ったんだから。それは確かだ。

 

 にもかかわらず、占領軍の目標が、この措置によって日本の弱体化を図るという点にあったことは、これまた間違いない。

占領軍は婦人に参政権を与え、戦前は三十歳でなければ立候補できなかったものを二十五歳に引き下げ、投票権も二十歳で行使できるようにした。おかげで田中角栄は、二十八歳で代議士になれたわけだ。

 なぜ占領軍はそんなようにしたかというと、たとえば婦人、かつての日本では一家の主人が「右向け、右」といったら、みんな右を向くから戦争になるんだ。でも婦人というものは本能的に戦争が嫌いだから……今は違うけどね、婦人のほうが争いが好きな面もあるけど、とにかく婦人に参政権を与えれば簡単に戦争賛成というまいと、占領軍はそう考えたわけなんだな。

 若い者も投票権を持てば、オヤジの命令に全部が全部、従うとは限らんだろうと。

それが日本の民主化、非戦力化につながると、占領軍は考えたわけだ。

 

 わたしは自民党の諸君にいったことがある。日本も戦争に敗けていい国になった。昔はね、働けど働けどわが暮らし楽にならざり、という国であり、『女工哀史』が語られる国であったと。それが何もかも吹っ飛んじまって、日本は居ながらにして自由主義、民主主義の国になった。

勤労者の諸君は労働三法をもらって“わが世の春”を謳い、天皇陛下を「彼」と呼び捨てにしている。人の悪口もいいたい放題だ。戦前は第一次産業第二次産業第三次産業しかなかったのに、マッカーサー第四次産業までつくってくれた。

アゴばかり達者で、人の悪口をいってればメシが食える産業ができたんだ。これ笑いごとじゃないんだよ。これも占領軍がわが国に押しつけた現行憲法によってつくられた社会制度である。とね。そういうことなんだ。

 

つづく

こうして、占領軍によって作られた日本国憲法(日本の非戦力化、弱体化、細分化)ですが、現在は中国、韓国、北朝鮮が「憲法9条を守れ」と内政干渉をしてきているんですね。これら3国は「抗日戦争をして日本軍を追い出した」と豪語していますが、実はこの3国は一度も日本軍と交戦したことはございません。

この3国は、「抗日戦争で侵略国家・日本から自国を守った」という嘘の歴史を正当化するために、自国民に反日を煽っているんです。

3国は反日をやめたら政権を維持できない宿命にあるのです。

※韓国は『大韓民国臨時政府』の継承国家という位置づけですが、初期の臨時政府は朝鮮共産党創始者・李東輝がいて、ソ連から援助資金を受け取っていました。

金九の時代になっても、中国共産党コミンテルン中国支部)から資金を援助してもらっていました。 なので、歴史をたどれば韓国も共産主義政権でもあるのです。

 

それでは、日本共産党や左翼系野党はなぜ護憲なのか?ということですが、彼らの心の故郷は、中国、韓国、北朝鮮と同じで「コミンテルン」なんです。

ですから、左翼政党の議員は日本国、日本国民のために政治をしているわけではないのです。

 

『22年テーゼ』Wikipediaより

 22年テーゼは1922年にコミンテルンで示された『日本共産党綱領草案』の通称。

1919年に創設されたコミンテルンは、1922年1月にモスクワで極東民族大会を開催した。この大会には日本代表として徳田球一らが参加し、スターリンから共産党組織を結成するよう指示を受けた。

 

 徳田の帰国後、山川均、堺利彦野坂参三、佐野学らによる代表者会議が行われ、コミンテルンの方針を承認し、日本共産党が結成された。1922年11月の第4回コミンテルン大会で、日本共産党コミンテルン日本支部と認められ、コミンテルンの理論家ブハーリンが起草した「日本共産党綱領草案」(22年テーゼ)が示された。

 

内容は君主制の廃止、軍隊の廃止、労働者の武装権、朝鮮・中国からの撤退、土地公有化などであった。以下略

…とはいえ、

コミンテルン宗主国である旧ソ連(現ロシア)も、中国、北朝鮮、韓国も軍隊を持っているわけなんですが…。しかも、旧ソ連(現ロシア)や、中国、韓国は他国の領土を武力で侵略していますよね。共産主義って、本当に歪んでいますよね。

北方領土竹島も日本が武装解除した時に侵略された事実を、日本の左翼政党はどう考えているのでしょうか?

 

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「憲法の日」に寄せて②

今日もお立ち寄り有難うございます。

 

カレンダーには「憲法記念日」となっていますが、アメリカが日本の弱体化、解体するために過酷な縛りをつけた「占領憲法」が制定された日を「記念日」とは言いたくありません。自分たちを苦しめる憲法を押しつけられて「記念」とする自虐的な世論に迎合したくありません。

 

また、左翼の人たちは「平和憲法」と呼んでいますが、自分たちの手足を縛られ、鞭を打たれる憲法に「平和」などと呼ぶ神経が理解できません。左翼はマゾ体質なのでしょうか?

「戦争ができる国になる」などと反対していますが、「日本国民の平和と安全を守る」という自衛に対しては何も語りません。

 

昨今の左翼勢力は、改憲を阻止するために「モリカケ」問題で、改憲阻止を謀っているようですが、彼らも言論人、国会議員ならば正面きって議論をすべきです。

ただ反対というだけの駄々コネは、幼児と同じですね。

 

さて、「憲法の日」に寄せて①の続きに入りたいと思います。

 

早坂茂三田中角栄 回想録】早坂茂三

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 憲法制定、西ドイツと日本の差

 しかし、そうはいってもね、いつまでも占領軍時代の法律、制度を引きずっていく必要はない。だから、現憲法についてもこの辺で本格的な検討を加えるべき時期にきていることも、また、確かだと思う。

 

 ただ、日本はここまできたんだから、憲法改正に関してことを急ぐ必要はない。憲法は国の最高法規だ。慎重に扱って扱いすぎることはない。それを国じゅうに混乱を起こさずにやるには、何が必要か。まず、わが国と各国の憲法をよく比較し、勉強することから始めればいい。それなら自民党だけでなく、中道政党や社会党も一緒にテーブルに着くことができるだろうね。

 

 いずれにしてもね、憲法はどこの国のものでもなく、日本の憲法であるということだ。その成立に関しては、少しの疑義もあってはならんわけだ。

国家に自由がないとき、主権の存在せざるときに憲法がつくれるものか。どうかね?そんなことは明白じゃないか。

 主権の拘束する力の存在するときにつくられた憲法は無効である、と。これがわたしが代議士になったころから先輩に教えられてきたことだ。

 

その点で西ドイツはね、「第三国に占領されている間は憲法はつくることはできない。つくっても無効だ」と主張した。日本は初めて戦争に負けて勝手がわからかったけれども、ドイツは長いあいだ、敗けたり勝ったりを繰り返して、他国に憲法をつくらせたり、つくられたりした経験を持っていた。

 だから、占領国から渡されたものに憲法の名はつけないで『ドイツ国基本法』としたわけだ。 しかも末尾に「この基本法は占領が終わる日にその効力を失う」と明記したんだよ。そして占領が終わると、直ちに新憲法をつくった。さすが経験者だ。

 

 ところが日本はというと、初めて敗戦を味わった者の悲しさというか、アメリカから手渡された草案に日本国憲法と名づけ、ごていねいにも、この憲法を改正する場合は衆参両院で三分の二以上の発議で行う。

 しかもその可否は直接、国民投票に求めなければならないと、がんじがらめにした。

経験者と、そうでない者とのあいだには、これだけの違いがあるんだ。

 

 今にして思えばだね、占領が集結して日本が独立を回復したときに、いまの憲法が是か非かを国民投票に付すべきであった。

 とにかく、現憲法について何かモヤモヤしていたり、国民の半数近くが憲法の成立過程に疑義を持っていたりするのはいけない。

 やっぱり時代の変遷に応じて変えなくてはいけないんだ。

そしてね、自分の子供たちや孫たち、次代の国民が将来、長きにわたって国の基本法、最高法規として守っていけるものをつくるべきなんだ。

 

 現行憲法がどのようにしてつくられたか、今日では国民のほとんどが知っている。だから、その気になれば誰だって憲法について逐条的に議論ができるんだ。

 憲法論議を巻き起こすこと自体が日本を再び戦争に巻き込むことにつながるという批判があるけれども、わたしが今いったようなことからすれば、羹(あつもの)に凝りて膾(なます)を吹くの類でね。 ナンセンスじゃないの。

 国にとっても、大事なものほどタブー視してはならんのだ。憲法のような大事なものは国民すべてがいつでも議論できるよう、いつもちゃんとテーブルに置いておくべきなんだ。

 わたしは代議士になりたての若いころから、そういい続けてきたわけだよ。

 

 もっとも、まだ機が熟していないと思う。問題の第九条についていえば、アメリカが考えていた憲法九条というのは、わが国の潜在戦力さえも否定しようとするものであった、ということなんだな。

 当時のわが国のすべての重化学工業をフィリピンに賠償として提供させ、日本を非工業国にしようという考えがアメリカにあった。それと同じ狙いというべきだろうな。

 

 今の憲法のなかで、いいものはもちろん、たくさんある。そりゃああるよ。

しかし、わたしはね、現憲法はこのままではいけないと思っているんだ。

わたしが前に、こういう趣旨の発言をしたら、マスコミはわたしの片言隻句をとらえて「田中角栄改憲論者になった」と騒いだ。バカなことをいってはいけない。

わたしが代議士になってから今日に至るまで、現行憲法についてどんな発言をしてきたか、それを十分調べてから書けというんだ。

 昭和二十一年に初めて衆議院総選挙に立候補したときの選挙公報や国会答弁を含めた、これまでの憲法改正に関するわたしの発言、そういったものの記録をマスコミは改めて読み返すことだ。論評を加えるなら、それからだよ。

 

つづく

 

日本を再び戦争に巻き込む」…左翼の人たちはこの頃からオウムのように言い続けていたんですね(苦笑)。

そして、議論を避けてきた…

左翼政党は本当に進歩がありませんね(呆)。

 

また、左傾マスコミもこの時代から人の言葉を端折って論じ、自分たちの論調以外の論は抹殺しようとしてきたんですね(怒)。

 

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「憲法の日」に寄せて ①

今日もお立ち寄り有難うございます。

 

今日5月3日は「(占領)憲法の日」ですね。

いつの間にか日本共産党や左翼の方々、マスメディアが「平和憲法」と呼ぶようになり、今ではカルト宗教の「経典」みたいになっております。

 

左翼の方々は「日本が侵略戦争の反省に立って出来た憲法」と、もっともらしい屁理屈をつけて「平和憲法」と言っていますが、どうして彼らがこのような幼稚な嘘を平気で言えるのか?とただただ呆れるばかりです。

 

そこで、一日本国民として、本当に現占領憲法が日本国、日本国民の平和をもたらすのか?と今一度考えてみたいと思います。

 

対中国政策では大失敗し、また政官業の癒着、利益誘導型の政治を行ってきた田中角栄元首相は個人的には好きではありませんが、リアリズムに立った政治家としては、すごい政治家だと思います。

そんな田中角栄氏の「戦後憲法」に寄せる思いを書いていきたいと思います。

空想の世界で憲法を語るのではなく、実際に戦前、戦中、戦後の世界を見てきた田中角栄氏の言葉が皆様にとっても参考になればと思います。

 

下記に紹介します本は、田中角栄氏の秘書の早坂茂三氏が書いたものですが、早坂氏は元日本共産党員でしたので、左翼特有の論調が含まれていてミスリードな部分がありますが、田中角栄氏の言葉をそのまま載せていますので、その部分を引用させて頂きたいと思います。

 

早坂茂三の 田中角栄 回想録】早坂茂三

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占領軍の意図と日本人の知恵

 最大の問題は、やっぱり憲法だった。これは今日まで尾を引いている。

とにかく日本の新憲法はアメリカによる占領のもとでつくられたわけだ。これは間違いない。だから、いろんな不満があって、憲法ができた直後にはもう「憲法を改正せよ」の声が出てきた。

 

 ところが、アメリカ占領軍の日本人を見る目は違っていた。日本人というのは、気が早いし、世界にも稀な単一民族、同族国家だから、いざとなればまとまりも早い。

うっかりしていると、すぐに憲法改正に取り組むと。

 占領軍はそうみてとったのか、憲法改正が容易にできないように、絞りに絞りをかけた。

 国会の発議条件なんかの改正手続きを、きわめて厳しくしてしまったわけだ。

大変な厳しさだよ、これは。

 

 ところが、だ。そこへ朝鮮戦争が起こって、アメリカは自分が日本国憲法にかけた手かせ、足かせが邪魔になった。

アメリカは日本を早く再軍備させたいんだから。で、吉田総理に憲法改正を要求してきた。早くせい、とね。

 

 しかし吉田さんは「憲法改正はいたしません」とハネつけた。そこが吉田さんの偉いところなんだ。 吉田さんと当時の民自党の見識というものだ。

 日本人たるもの、あの当時のそういう事情をよく思い出してみなければならない。

 そうやって吉田さんが占領軍相手に汗を流して苦労していたとき、ほかの中間野党はどうであったかというと、野党第二党の改進党総裁の重光葵さん、この人は憲法改正に賛成だったし、参議員第二党勢力の緑風会も賛成だった。

 

 二十七年十月は、憲法改正は是か非かを争点にして総選挙をやったくらいでね。

自由党注、二十五年三月一日、民自党と民主党連立派が合同して自由党を結成)を含めたら衆参両院で四分の三の改憲勢力があった。

 自由党さえ乗れば憲法改正はすぐにでもやれたわけだよ。

 しかし、吉田さんは乗らなかった。そのへんのところがね、自由党の功罪を論ずる場合、非常に味のあるところなんだねぇ。

 

 そういうなかで、わたしはどうしていたかということなんだけど、代議士に当選したときから政治の真んなかにいたよ。ずーっと真んなかだ。

そのころは占領軍から毎日のように『メモランダム』が発せられていた。

まァ、日本の国会に対する事実上の指示だな。

そのメモランダムで法律の原文が示され、一行の修正でも、付帯条件をつけることでも、占領軍のOKがなければできなかったんだ。それはもう、やかましいもんだったよ。

 

たとえば国会の審議時間。法案が予定通り上がらないと、午前零時を回っていても国会本会議場の時計が占領軍によって止められて、法案の決議が強行されたような例はいくつもある。

 占領軍民政局の国会係はケーディスという人でね。この男が議長サロンで終日、頑張っていた姿は、今でもわたしの記憶に鮮やかだよ。

 

 占領軍のメモランダム、これは洪水みたいでね。まるで蛇口からほとばしる水道の水だ。わたしはその蛇口の下に位置しておって、ジャーッと降りてくる法案の条文整理をしたり、時には占領軍メモに反して多くの議員立法を立案したこともある。

ま、そうした若いときの経験がね、今のわたしの法律に対する知識の基礎であるかもしれないと思うんだ。

 

 法律というのは、これ、実に面白い生き物だよ。使いようによっては変幻自在に姿を変える。法律を知らん人にとっては面白くもない一行、一句、一語が実は大変な意味を持ち、すごい力を持っているんだ。

 壮大なドラマが法律の一行、一句にこめられているといってもいい。

法律を活殺自在に使いこなすには、法律に熟知していることが必要だけれども、それが法律学者的な逐条解釈に立った知識じゃダメだ。

 

 その一行、その一語にこめられた背後のドラマ、葛藤、熾烈な戦い、そういったものを知っていて、その一行や一語にこめられた意味がわかっていなければならない。そこが肝心なところだな。

わたしはそうした物差しで戦後から今日に至るまでのわが国の法律や制度をみているんだ。

 

 今の法律や制度、仕組みというのはね、戦後これだけ長く経った今なお、占領軍時代につくられたままのものが多いんだ。

だから、そうした法律が制定された当時の背景や目的がわかっていないと、法律の運用を間違う。

 

 一つ一つの法律を、文面だけからの解釈で改正しようといってみても、議論が百出してまとまるもんじゃない。

この法律は日本政府の原案ではこういうものであった、それが占領軍メモが届いてこう変わった、その間にこういう事態が起きたので、現行法に修正されたと。もって如何となす、となれば議論の土台がきっちりして、コンセンサスを得られる条件が満たされると、わたしは思っているんだがね。

 

 ともかく占領軍は、わが国を弱体化し細分化し、非戦力化するために現行憲法や多くの法律をつくって、日本政府に呑ませたんだ。

にもかかわらず、戦後、幾星霜を経て、わが国は世界でも指折りの経済大国に発展した。

これはね、日本人が強い同族意識をもち、英知と努力によって現行憲法や占領時代につくられた諸制度・諸法規を消化して、わが国の風土に定着させたからなんだ。

 

憲法制定、西ドイツと日本の差

 しかし、そうはいってもね、いつまでも占領時代の法律、制度を引きずっていく必要はない。だから、現憲法についてもこの辺で本格的な検討を加えるべき時期にきていることも、また、確かだと思う。…

 

   つづく

 

最後までお読みくださいまして有難うございます。

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